ヴァイタスコープの導入以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/30 22:02 UTC 版)
「キネトスコープ」の記事における「ヴァイタスコープの導入以後」の解説
1895年の間、欧米ではキネトスコープの公開をきっかけにして多くの映写機が開発された。レイサム兄弟と協力したディクソンは、4月にパントプティコン(英語版)を共同開発し、5月20日にニューヨークで商業上映を始めた。その後、ディクソンはエジソン社の主要な競争相手となるアメリカン・ミュートスコープ社(英語版)の設立に参加した。同社が発売したのぞき穴式装置ミュートスコープは、キネトスコープよりも安価で良質なため、すぐにそれを上回る人気を獲得した。アメリカの発明家トーマス・アーマット(英語版)とチャールズ・フランシス・ジェンキンス(英語版)はファントスコープ(英語版)を開発し、9月にアトランタでキネトスコープ用作品を映写した。ヨーロッパでは、フランスのリュミエール兄弟がシネマトグラフ、ドイツのスクラダノフスキー兄弟(ドイツ語版)がビオスコープを開発し、それぞれ商業上映を行っていた。 キネトスコープに固執したエジソンも、最終的にラフとガモンの要求に応じ、助手のチャールズ・H・カイザーに映写機の研究を行わせたが、カイザーはこの問題を進展させることができなかった。1896年1月、エジソンはラフとガモンを通じてアーマットからファントスコープの特許権を購入し、それを「ヴァイタスコープ」に改名して映写機を導入した。ヴァイタスコープはエジソンの発明品ではないが、ラフとガモンにより商業的価値を高めるために「エジソンのヴァイタスコープ」として商品化された。ヴァイタスコープは最初は人気を呼んたが、すぐに国内外の競合相手による安価で良質な映写機が市場にあふれたこともあり、同年秋までに商業的に失敗した。 その後、エジソンはキネトスコープの名称を使用した自身の映写機を開発した。1897年2月に「映写式キネトスコープ(プロジェクトスコープ)」を発売し、1900年代にかけて改良を施した映写式キネトスコープが何度も販売された。1911年末には家庭や教会などで使用するための「家庭用映写式キネトスコープ」を発売した。フィルムの幅は21ミリで、その幅に5.7ミリのフレームが3つ並ぶという特殊な形をしていた。しかし、独自のフォーマットのために上映作品が限られ、技術的欠陥にも悩まされたため、特に人気が出ることはなかった。1915年には「スーパー・キネトスコープ」の開発も試みられたが、製造費があまりにも高くなるため中止となり、これがエジソンの最後の映画装置となった。
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