ロンドン、シュトゥットガルト
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「アルチュール・ランボー」の記事における「ロンドン、シュトゥットガルト」の解説
1874年3月から12月末までロンドンに滞在した。これまでのロンドン滞在でもそうだが、ランボーは読書のために大英博物館の図書館に通った。この間、夏に母と妹ヴィタリーがロンドンを訪れている。当初は、かつてパリで活動をともにした詩人ジェルマン・ヌーヴォー(フランス語版)と渡英し、ヌーヴォーが『イリュミナシオン』所収の詩の清書を手伝った。このため没後1895年出版のランボー全集所収の「失われた毒」と題する詩が、ヌーヴォー作ではないかという論争が起こった。ヌーヴォーは多くの偽名を使っていたため、事態はいっそう複雑であったが、現在では「失われた毒」はヌーヴォー作とされている。邦訳では、中原中也訳『ランボオ詩集』(野田書房、1937年、青空文庫所収)には「失はれた毒薬(未発表詩)」として収められているが、これ以降に邦訳された他の詩集には見当たらず、粟津則雄編『ランボオの世界』(青土社、1974年)にはヌーヴォーの詩「喪われた毒」として掲載されている。 1875年2月13日から独語の習得のためにシュトゥットガルトに滞在した。フランス語の家庭教師をしながらドイツ語を学び『イリュミナシオン』の原稿を完成させた。3月2日、1月16日に出所したヴェルレーヌが、シュトゥットガルトのランボーを訪れた。ヴェルレーヌがランボーとの放浪中に書いた詩は、すでに1874年に『言葉なき恋歌』として出版されていた。ランボーは『イリュミナシオン』の原稿をヴェルレーヌに託し、ブリュッセルにいるヌーヴォーに送って印刷してもらうように依頼した。この原稿はこの後多くの人の手に渡り、1886年にようやくその一部が文芸誌『ラ・ヴォーグ(フランス語版)』に掲載された。ランボーがすでに詩作を放棄し、貿易商人としてアビシニア(現エチオピア)にいた頃のことであり、全原稿が発表されたのは、没後1895年刊行のランボー全集においてである。 ヴェルレーヌとはこれが最後の別れとなった。
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