ロング・アイランド・セントラル鉄道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/20 00:26 UTC 版)
「セントラル支線 (ロングアイランド鉄道)」の記事における「ロング・アイランド・セントラル鉄道」の解説
詳細は「ロング・アイランド・セントラル鉄道(英語版)」を参照 現在のセントラル支線の線路用地 (right of way) は1873年、アレクサンダー・スチュアートが認可を受けロング・アイランド・セントラル鉄道 (CRRLI) を建設した時にさかのぼる。路線はCRRLIによってフラッシング(英語版)からベスページ・ジャンクションまで建設され、その後バビロンの海岸線まで前述のバビロン・エクステンションを経て延伸した。ガーデンシティ(英語版)では分岐線もまたヘンプステッド(英語版)の住民にサービスを提供するために建設された。当時、スチュアートはガーデンシティ、アメリカ合衆国で最初の計画された郊外のコミュニティの1つを建設していた。その鉄道は、建材をガーデンシティの建設現場へ供給していたスチュアート所有のベスページ煉瓦工場(現在「オールド・ベスページ(英語版)」と呼ばれる村落の中にあった)へサービスを提供するという点で、二重の目的を有していた。さらにその鉄道はまたガーデンシティの新しい住民に、ロングアイランドシティ(当時マンハッタンへのフェリーに接続することができた)への両方の通勤輸送とともに供給していた。バビロン・エクステンションを通るサービスはまたバビロンの海岸線への小旅行やファイア・アイランド(英語版)行きのフェリーにより人気があった。 1876年にはCRRLIはLIRRに取得され、スチュアートの路線はLIRRのセントラル支線として知られるようになった。フラッシング(英語版)からクリードムーア・ライフル射撃場(その場所は後にクリードムーア州立病院(英語版)となった)までの部分は1879年に廃止されたが、線路は第一次世界大戦まで撤去されなかった。クリードムーアからフローラル・パーク(英語版)までの部分は貨物線として存続しクリードムーア支線(英語版)として知られたが、1960年代後期に運行が終了され1970年代初頭に線路が地図から削除された。LIRRはセントラル鉄道の線路用地をフローラル・パークとガーデンシティの間で、現在のヘンプステッド支線を形成するヘンプステッドへのセントラル鉄道の分岐線とともに使用した。ガーデンシティ駅を過ぎるとセントラル支線はベスページ・ジャンクションまで、ナッソー郡の中央、現在のナッソー・ベテランズ・メモリアル・コロシアムとアイゼンハワー・パークを通る直線経路を走行し続け、その後バビロン・エクステンションを経てバビロンを目指して南東方向へ走行した。 1925年にはスチュアートのセントラル支線はペスページ・ジャンクションの再構成でバビロン・エクステンションとの接続部から切り離された。その路線のガーデンシティからベスページ・ジャンクションにある切り離しのすぐ西までの部分はセントラル・エクステンション (Central Extension) と呼ばれるようになった。1925年にも、バビロン・エクステンションは、主にLIRRの2本の主要な幹線、本線とモントーク支線の接続点を設置するという目的で完全に作りなおされた。したがって、現在の前述したセントラル支線として知られるようになった。1939年に、ガーデンシティからベスページの線路終端までのセントラル・エクステンションでは定期旅客列車が廃止された。第二次世界大戦の間、この路線の東部は撤去され鉄くずとして売却された。第二次世界大戦の後、その路線の一部はレヴィットタウン(英語版)の建設のための材料を運搬するために再建されたが、それは二度とベスページ・ジャンクションまで(したがってバビロンにも)到達することはなく、この線路もすぐに撤去された。
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