ロス対リッジ党
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「ジョン・ロス (チェロキー)」の記事における「ロス対リッジ党」の解説
マクリーンの助言は、ジョン・リッジとエリアス・ブーディノットがロスの指導力を疑い始めたときに、チェロキー族の中に分裂を生じさせた。1833年2月、リッジはロスに宛てて、その月にワシントンに派遣された代表団はジャクソンと移住に関する交渉を始めるべきと提唱する手紙を書いた。リッジとロスは相容れない世界観を持っているわけではなかった。どちらもチェロキー族はその土地に対するジョージア州の権利侵害を払い除けられるとは考えていなかった。この点についてはリッジとロスは合意したが、チェロキー・ネーションにとってどうしたら最善となるかについては衝突した。 このような環境で、ロスは1834年3月にワシントンに代表団を率いていき、移住に代わる代案を交渉しようとした。ロスは幾つかの提案を行った。しかし、チェロキー・ネーションはロスの計画のどれをも認めていなかった可能性があり、またジャクソンが移住以外の何らかの同意に落ち着かせるものという根拠ある予測も無かった。これらの提案は大陸を横切る長い旅行期間とも組み合わされて、移住に関する交渉をいつまでも引き延ばすというのがロスの戦略であることを示していた。ロスはジャクソンの反対を疲れさせて、チェロキー族の移住を求めない条約に結びつけることを期待した。 ロスの戦略は、アメリカ合衆国が少数派と条約を締結するという恐れがあったために損なわれた。1834年5月29日、ロスはジョン・ハントンから、メイジャー・リッジ、ジョン・リッジ。エリアス・ブーディノットおよびロスの弟のアンドリューを含む集合的にリッジ党と呼ばれる新しい代表団が移住条約に署名するという目標を持ってワシントンに到着したという伝言を受け取った。両派は和解を試みたが、1834年10月になってもまだ合意に至らなかった。1835年1月、両派は再びワシントンにいた。リッジ党の存在に圧力を感じたロスは、1835年2月25日、ミシシッピ川の東にある全てのチェロキー族土地をミシシッピ川西の土地と2,000万ドルとで交換することに同意した。ロスは総協議会がその条件を認めることを条件とした。 陸軍長官ルイス・カスは、これがあと1年間移住を遅らせる新たな策略と考え、ジョン・リッジに条約への署名を迫った。1835年12月29日、リッジ党はアメリカ合衆国とのニューエコタ条約に署名して移住に同意したが、この行動はチェロキー族の大多数の意志に反するものだった。ロスは条約の履行を止めようとロビー活動を行ったが成功しなかった。1838年までにインディアン準州に移住しなかったチェロキー族はウィンフィールド・スコット将軍によって強制移住させられた。この移動が「涙の道」と呼ばれるようになった。ロスは敗北を認め、スコット将軍に移動行程の大半をロスが監督することを認めさせた。涙の道の途上で、ロスは妻のクァティを失った。クァティは純血のチェロキー族女性であること以外詳細は知られていない。クァテイはアーカンザス川のリトルロックに到着する直前に死んだ。 ロスは後にメアリー・ブライアン・ステイプラーと再婚した。
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