レルズの自白
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/16 16:51 UTC 版)
1940年2月、マーダー・インクの“キッド・ツイスト”エイブ・レルズがブルックリン警察に逮捕され、ニューヨーク州ブルックリン地区検察のウィリアム・オドワイヤー首席検事はバートン・ターカス検事に組織壊滅を指示した。レルズは第一級殺人罪の告訴を取り下げる代わりに密告者に転じる司法取引に応じ、マーダーインクの同僚メンバーの殺人行為を次々に自白した(そのことで未解決事件がブルックリンだけで49件も片付いた)。バカルターやアナスタシア、シーゲルなど、マーダーインク上層部の殺人関与も自白し始めた。 1940年9月、オドワイヤーはデューイと同じようにバカルターを州法廷に引っ張りこむため連邦当局と調整に入った。1941年4月までにニューヨークへの移送が決まり、翌月カンサスのレブンワースからマンハッタンの連邦拘置所に車で護送された。1941年4月、バカルターの潜伏を助けていたとして、シーゲル、アナスタシアを含む14人が逮捕された。 1941年8月、ブルックリンのキャンディーショップ店主ジョゼフ・ローゼン殺害容疑でブルックリン検察に起訴された。バカルターの弁護団が陪審員の資格にクレームをつけたため陪審員の選定に手間取り、実質的な公判は同年10月20日にずれ込んだ。この間レルズに続いて、アルバート・タネンバウムもバカルターの殺人関与について自白した。 1941年11月12日、バグジー・シーゲルの裁判で証言する予定だったレルズがコニーアイランドの護衛付のホテルの6階から墜落死した。バカルターと共に告発されていたアナスタシアへの訴追は「証人レルズの死亡により取り下げる」とオドワイヤーは宣言したが、バカルターの訴追手続は代役のタネンバウムらを証人に立てて継続された。 1941年12月、第一級殺人罪で死刑判決を下された。すぐ控訴したが、1942年10月、再審で再び死刑判決を受けた。
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