レッドスティック戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/19 02:00 UTC 版)
1813年から1814年の、レッドスティック戦争として知られるクリーク戦争は、クリーク自治領の内戦として始まったが、米英戦争に巻き込まれるようになった。ショーニー族の指導者のテカムセと、レッドスティックス(w:Red Sticks)としてアメリカ人に知られていたアッパー・クリーク族の宗教的指導者たちによる熱弁に奮い立たされて、白人の入植者と、合衆国のインディアン管理官のベンジャミン・ホーキンス(w:Benjamin Hawkins)が管理する「文明化プログラム」に積極的に抵抗しようとした。レッドスティックの指導者であるウィリアム・ウェザフォード(レッド・イーグル)(w:William Weatherford)、ピーター・マックイーン(w:Peter McQueen)とメナワ(w:Menawa)は、アメリカと同盟を組んだウィリアム・マキントッシュ(w:William McIntosh)率いるロウワー・クリーク族と激しく衝突した。 1813年8月30日、レッド・イーグル率いるレッドスティックスは、アラバマ州モービル近くのミムズ砦(w:Fort Mims massacre)のアメリカの前哨を攻撃した。そこはアメリカ白人と彼らと同盟を組むインディアンが集合していた。レッドスティックスは砦を占領し、血まみれの衝突は続き、女性と子供を含む捕虜は殺害された。250名近くが殺害され、アメリカ南西部の開拓地中にパニックが広まった。 ミムズ砦での大虐殺に対応して、テネシー州、ジョージア州、ミシシッピ準州は、クリーク自治領の奥深くに軍隊を進めた。数で凌駕されて武装も不十分であったため、レッドスティックスは彼らの荒野の要塞から死闘を繰り広げた。1814年3月27日、第39合衆国歩兵連隊とチェロキー族とクリーク族の同盟に支援されたテネシー州民兵のアンドリュー・ジャクソン司令官は、最終的にタラポーサ川(w:Tallapoosa River)上のホースシュー・ベンドの戦いで、レッドスティックの抵抗勢力を破壊させた。 レッドスティックスは破滅に追いやられたが、およそ3,000名のアッパー・クリーク族の残りの抵抗勢力が、数ヶ月間戦い続けた後に死亡した。1814年8月、消耗と飢えのため、彼らはウェトゥンプカ(w:Wetumpka, Alabama)(現在のアラバマ州モンゴメリーの近く)でジャクソンに降伏した。1814年8月9日、クリーク族はジャクソン砦条約(w:Treaty of Fort Jackson)に署名させられた。これは紛争の終了と、彼らに先祖伝来の土地の半分以上である2000万エーカー(81,000 km²) の土地をアメリカ合衆国に割譲することを決めた条約であった。ジャクソンと共に戦ったクリーク族でさえ、レッドスティックスの蜂起を許容した責任を負わされ、領土を割譲することが強制された。この条約によってアラバマ州は切り分けられ、1819年にアメリカ合衆国に州として承認された。 クリーク族の一部は戦争の後にフロリダに移住し、そこで彼らの一部はセミノール族とアメリカに抵抗するイギリスと同盟を組んだ。彼らは後に、フロリダで起きたセミノール戦争の両側に関わることになる。
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