レオ・ワーレン
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「デュケインのスパイ網」の記事における「レオ・ワーレン」の解説
レオ・ワーレン(Leo Waalen)はダンツィヒ出身だが、正式な移民ではなく1935年に船を脱走することでアメリカに入国した。渡米後は米海軍に小型舟艇を納めていた船舶会社に塗装工として勤務していた。 彼はイギリス行き船舶に関する情報の収集に従事していた。また、彼はFBIが発行した機密小冊子を入手しており、これには各工場が国防関連資材をサボタージュから守る為に採用するべき予防措置に関する情報が含まれていた。さらに政府契約の各種資材および装備の仕様の一覧表、大西洋側沿岸の詳細な海図などの入手にも成功している。 1941年5月、貨物船ロビン・ムーア(英語版)号は9人の将校、29人の乗組員、7人または8人の乗客を乗せ、護衛船団を付けぬままニューヨークから南アフリカ経由でモザンビークまで商業貨物の海上輸送に従事していた。5月21日、当時イギリスの管轄下にあったフリータウンの港から750マイルほど西に進んだ地点で、ロビン・ムーア号はドイツ潜水艦U-69(英語版)によって停船させられた。ロビン・ムーア号は中立国の国旗を掲げていたが、乗り込んできたドイツ水兵らによって乗員及び乗客らは退去を余儀なくされた。全員が救命艇に乗り込んだのを確認した後、U-69はロビン・ムーア号に魚雷を撃ちこんだ上に砲撃を加えてこれを撃沈した。完全に沈没したのを確認した後、ドイツ水兵らはW・E・マイヤーズ船長の救命艇に乗り込むと代用パンの缶詰4つとバターの缶詰2つを与え、ドイツの敵に物資を輸送していたが故にロビン・ムーア号は撃沈されたのだと説明した。1941年10月、連邦検察では全ての容疑について無罪を主張していたスパイの1人、レオ・ワーレンについて、ロビン・ムーア号出港5日前に彼が航海予定をドイツ側に無線で伝えていたことを明らかにした。 ワーレンはスパイ法違反について12年、外国代理人登録法違反について同時に2年の懲役を課された。
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