リーグができるまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 20:03 UTC 版)
「エアステ・クラッセ1911-1912」の記事における「リーグができるまで」の解説
前述のとおりこのリーグを創設・運営したのは帝都ウィーンに本拠地を置く協会NÖFVであり、オーストリアサッカー協会の運営するリーグではなかった。これまでウィーンではカップ戦形式のチャレンジカップ (1897- 1911)、オーストリアサッカー連合 (協会の前身)がウィーン市内のクラブを対象に開催した短命なリーグ戦タークブラット・ポカール (1900 - 1903)といったサッカー大会が行われた。タークブラット・ポカールが長続きしなかった理由は、限られた余暇時間と視界の悪いグラウンドといった悪条件下で、過剰に多くの試合を開催したことにあった。劣悪な環境は改善されないまま、第3回シーズン限りでこのリーグ戦は消滅した。オーストリアサッカー協会はウィーンの優れたクラブを集めてリーグ戦を再建しようとしたが、クラブチームの試合の観客数がナショナルチームに及ばない状態にあって、各クラブは消極的なまま年月が過ぎていった。この間に協会主導で他の都市や帝冠領のクラブも交えたリーグ戦がウィーンで毎年行われていたが、最終順位表の記録がまったく残っておらず、公式記録として残るようなシーズンはなかった。この1911年5月に誕生したばかりのNÖFVは、オーストリア協会に代わってより整備されたリーグの創設に着手し、各クラブに対し参入条件を緩やかにした。当時ウィーンとニーダーエスターライヒには107ものクラブチームが存在したが、NÖFVはイングランドのフットボールリーグの初年度が12クラブで始まったことを参考に、その中から12クラブを選出した。DFCプラハ、テプリツァーFK、グラーツァーAK、KSクラコヴィアの4クラブは、前述の非公式なウィーンサッカーリーグに参加していたという記述が存在するが、エアステ・クラッセの参加資格は与えられなかった。最後に選ばれたASVヘルタ・ウィーンは、先に選ばれた11クラブが前年度の非公式リーグで1部所属だったのに対し、その下の2部リーグで優勝したことで選ばれた。実際にはレンヴェーガーSVという別のクラブが非公式2部リーグで優勝していたのだが、多くの対戦相手から「ホームグラウンドが規定より1メートル狭いので違反をしている」という指摘を受けタイトルを剥奪されたため、繰り上がりでヘルタ・ウィーンがエアステ・クラッセ初年度「オリジナル12」に加わったのである。
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