ラッセルとの和解と自由党の結成
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「ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)」の記事における「ラッセルとの和解と自由党の結成」の解説
1858年2月25日に保守党政権の第二次ダービー伯爵内閣が成立した。1859年3月に大蔵大臣・保守党庶民院院内総務ディズレーリが庶民院に提出した選挙法改正法案が否決されたことで解散総選挙(英語版)となり、保守党があと少しで過半数を獲得できるところまで議席を伸ばし、野党は危機感を強めた。 また同年、イタリア統一を目指すサルデーニャ王国が、ナポレオン3世のフランス帝国を味方に付けて、オーストリア帝国(当時イタリア半島北部をロンバルド=ヴェネト王国として支配し、またウィーン体制で復活したイタリア半島小国家群や教皇領に巨大な影響力を行使していた)と開戦した(イタリア統一戦争)。イギリスでは保守主義者が反ナショナリズムの立場からオーストリアに共感をよせ、一方自由主義者はナショナリズム支援の立場からフランス・サルデーニャ連合軍に共感を寄せていた。パーマストン子爵も親イタリア派で知られていたので、フランスのナポレオン3世もパーマストン子爵の政権復帰を望む意思を隠そうとはしなかった。 このイタリア戦争勃発による自由主義ナショナリズムの盛り上がりと保守党に対する危機感を背景に自由主義諸派の間には合流の機運が高まった。 1859年6月2日、パーマストン子爵がジョン・ラッセル卿の邸宅を訪問し、二人は和解した。6月6日にはウィリシズ・ルームズ(英語版)でホイッグ党、ピール派、急進派の300人近い議員が会合を開いた。会合ではパーマストン子爵がジョン・ラッセル卿に手を引かれて壇上に上がるなど二人の和解を強調する演出がなされるとともに、三派の合同による自由党の立ち上げ、ダービー伯爵内閣不信任案提出の方針が宣言された。 こうして結成された自由党は6月7日に内閣不信任案を提出し、10日の採決でこれを可決させた。これを受けてダービー伯爵内閣は総辞職した。
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