ライデン自然史博物館への就職
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「ヘルマン・シュレーゲル」の記事における「ライデン自然史博物館への就職」の解説
ウィーン自然史博物館に就職して1年ほど経ったころ、館長であるカール・フランツ・フォン・シュライバースが、当時助手を探していたオランダのライデン王立自然史博物館館長のテミンク(1778 - 1858)にシュレーゲルを推薦してくれたことで、1825年にライデンに移りテミンクのもとで研究活動を行うこととなった。この当時のテミンクにはハインリッヒ・ボイエ(Heinrich Boie (1794 - 1827))、ヨハン・ヤーコプ・カウプ(Johann Jakob Kaup(1803 - 1873)) 、ハインリッヒ・クール(Heinrich Kuhl(1797 - 1821))といった博物学者も協力していた。このうちのボイエは、シーボルトが日本で収集して送った標本に基づいて、アカハライモリ、アオダイショウ、ヤマカガシ、ニホンマムシなど、多くの日本人にとってなじみ深い両生・爬虫類を1820年代に新種として記載した人である。 シュレーゲルがテミンクのもとに移った当初は主に爬虫類のコレクションに関する仕事をしていたが、彼の活動分野はすぐに他の動物群にも拡った。このことで、彼をジャワ島の博物研究コミッションに参加させることが計画されたが、1827年にテミンクの後継者となるはずだったボイエが、同コミッションによる標本収集旅行中にジャワ島で病気で亡くなってしまったため、シュレーゲルのジャワ島行きの計画も実現せずに終わった。 1828年11月29日付けで博物館の脊椎動物部門の管理者(conserbator)となる。この年日本では、滞日任期を終えたシーボルト(1796 - 1866)が、海外持ち出し禁止の日本地図を持ち出そうとしたことが発覚して日本から国外追放された「シーボルト事件」が起こる。オランダに帰国したシーボルトとシュレーゲルが出会ったのはこの少し後のことである。シュレーゲルは20代前半、シーボルトは30代前半であった。二人は生涯強い友情に結ばれ、やがてシーボルトが日本で収集した動物をもとにした著名な『Fauna Japonica 』(日本動物誌:1834 - 1850)の執筆に加わることになる。分冊として出版しながら完結まで16年を費やしたこの大著の中で、シュレーゲルはテミンクと共に脊椎動物を担当し、多くの動物を新種として記載した。ちなみにテミンクは寛容な人物ではあったが、ことシュレーゲルには厳しくもあったようで、研究用の標本も十分には与えてくれなかったともいう。 1837年6月22日、コルネリア(Cornelia Buddingh)と結婚し、1840年9月30日には後に東洋学者となる息子グスタフ(Gusutaaf)が誕生する。
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