ユーモアの成立要件(愉快と不愉快を分ける原理)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 09:27 UTC 版)
「ユーモア」の記事における「ユーモアの成立要件(愉快と不愉快を分ける原理)」の解説
ある表現が、ユーモアとして見事に機能して愉快に感じさせ受け手を和ませるか、そうならずに反対に受け手を不愉快にしてしまうかは、つまるところ、表現者(書き手、話し手)の力量にかかっている。概説でも解説したように、ユーモアには「センス」が必要であり、ユーモアのセンスというのは、聞き手と自分を対等に扱う、という心の姿勢であり、また、受け取り手にとっては自分が使おうとしている表現が一体どう感じられるかということを相手の身になって想像すること、「思いやり」である。 表現者の側が一方的に、自己本意に、手前勝手にユーモアのつもりであることを表現していても、受け手の立場や心情に対する思いやりが足りないと、受け手の側では、「気が利いてない」あるいは「全然おかしくない」あるいは「不愉快だ」「腹立たしい」などと感じられる場合があるわけである。 例えば、知的なセンスの誇示の手段としてユーモアが用いられた場合、結局は自己顕示(自分だけは、人々よりも、またあんたよりも優れている、対等じゃない、との暗示)となり、聞き手からすれば、en:pedantry(衒学趣味、知ったかぶり)をして私を不愉快にした、と感じられることになる。 ユーモアのつもりで、性的な「おかしさ」を表現する人、あるいは下ネタを使う人もいる。これは受け手が、偶然にも運良く表現者と全く同じ状況に置かれていて、世の中に様々ある性に関する理解のなかから運良く同じ見解を持っていてくれれば、ユーモアとして受け取ってもらえる可能性もありはするが、多くの場合、そうはならない。性的な立場、性的におかれている状況というのは、同性であっても同年代であっても、ひとりひとり実に様々であり、しかもしばしば深刻な悩みになっていてもそれが伏せられているからである。また現代では異性に対して性的なおかしさ表現すれば、しばしば受け手は不愉快に感じることになり、セクシャル・ハラスメントとなる。 世相や人柄のよからぬ面を皮肉ったユーモア、風刺的な表現を用いつつ「おかしみ」を感じてもらおうとするものなどを「ブラックユーモア」と呼ぶが、これも受け手(聞き手)に対する思いやりを欠くと、(表現者の側の勝手な見解はともかくとして)ユーモアとしては機能しなくなる可能性が高い。たとえば、社会で行われている差別を、当事者でない人や部外者が「上から目線」などで皮肉ったり風刺して、それを「ブラックユーモアだ」と、表現者の側が勝手に思っていても、聞き手がまさにその差別の当事者である場合は(聞き手が差別の加害者であれ、被害者であれ)不愉快に感じることは多い。こうなると、その表現はもうユーモアではなく(ユーモアとしては機能しておらず)、単なる皮肉や批判や嫌がらせ的な発言として機能することになる。一方で、差別の被害者となっている人間が、他の自分と同様に差別されている人に向かって、(対等の人間として)差別の暗黒面を皮肉ったり風刺したりして、共通の(悲惨な)状況を一緒に笑い飛ばし、せめてひとときでも和むのに役立てば、その場合は、その表現はブラックなユーモアとして機能したことになる。 宗教的なことを扱う場合も要注意である。ユーモアは、あくまで表現者と受け手を対等の関係として、ともに尊重して思いやる時にユーモアとして成立し受け手を和ませるものである。例えば、自分の信仰と異なる信仰を持つ人々を、(自分の側は低くないという態度で)見下すように表現してしまっては、ユーモアとしては成立せず、人を不愉快にさせる悪質な表現となり、特にメッセージの受け手が当事者であれば、受け手を露骨に不愉快にさせるだけであり、その表現はユーモアの対極のものとして機能する。
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