ヤマシー族の攻撃とサウスカロライナの反撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/09 15:15 UTC 版)
「ヤマシー戦争」の記事における「ヤマシー族の攻撃とサウスカロライナの反撃」の解説
ヤマシー族は直ぐに数百名からなる2戦闘部隊を編成し、ポコタリゴの事件のあった日遅くに発進させた。1隊はポート・ロイヤルの開拓地を襲撃したが、セイモア・バーローズはジョン・バーンウェルのプランテーションまで辿り着き、広く警報を発した。偶々捕獲された密貿易船がポート・ロイヤルの港に繋がれていた。ヤマシー族が到着する時までに数百の開拓者はその船で逃亡し、他の者もカヌーで逃げた。 ヤマシー族の2隊目はセントバーソロミューの農園を襲い、プランテーションを略奪し火を付け、捕虜を捕まえて、100名以上の開拓者と奴隷を殺した。その週の中に、ヤマシー族の大部隊が、急遽編成されたサウスカロライナ民兵隊との交戦準備を始めており、サウスカロライナの市民は急拵えの砦に避難場所を求めて南部に向かった。 ヤマシー戦争はサウスカロライナ民兵隊の初めての大きな試験の場となった。クレイブン知事は自ら240名の民兵隊を率いてヤマシー族に対抗した。ヤマシー族は選択の余地無く全部隊を統合してクレイブンの民兵隊に向かうことになった。サルケハッチー川沿いサルケハッチー集落近くの開けた場所で会戦が行われた。これはクレイブンや民兵士官がまさに望んでいた形での戦闘になり、インディアンの戦い方には適していなかった。 数百名のヤマシー族戦士が240名かそこらの民兵に攻撃をかけ、側面を衝こうとしたが失敗した。先頭にいた戦士が何人か殺された後に、ヤマシー族は戦いを諦め近くの沼地に散った。両軍の損失はともに24名程度ではあったが、実際の結果はサウスカロライナ軍の決定的勝利となった。他にも小さな民兵隊がヤマシー族に圧力をかけ、一連の勝利を勝ち取った。 インディアンとの戦争で経験を積んだアレクサンダー・マッケイが南部の軍を率いた。この部隊は柵で防御を施された野営地に逃げ込んだ約200名のヤマシー族を見つけて攻撃した。比較的少数のカロライナ部隊が2回砦の壁に攻撃を掛けると、ヤマシー族は撤退を決めた。しかし一度砦の外に出るとヤマシー族はマッケイの約100名の部隊に奇襲攻撃を掛けられ殲滅された。 1715年夏に小さな戦闘が起こり、ドーファスキーの戦いと呼ばれた。カロライナのボートを使った斥候部隊が1群のヤマシー族を急襲し、35名を殺したのに対し自軍の損失は1名に留まった。
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