メディア人の登場とは? わかりやすく解説

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メディア人の登場

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 14:59 UTC 版)

メディア王国」の記事における「メディア人の登場」の解説

メディア人は古代イラン登場するインド・ヨーロッパ語族インド・イラン語派言語メディア語)を使用した人々である。ある時期イラン高原侵入し、その北西部現代ハマダーン州周辺地域定着したとされるイラン高原にはメディア人の到来以前フルリ人や「グティ人」等、様々な言語を話す住民居住していた。ここにインド・ヨーロッパ語を話す人々がいつ、どのように定着したのか明らかではないが、遅くとも前2千年紀中頃までにはイラン高原到達していた。彼らの中からメディア人やペルシア人など、後世イラン世界基層を成す人々登場する。現在知られる限りメディア人の言語であるメディア語筆記言語として使用されなかったため、彼らの歴史について記録ギリシア人文筆家(特にヘロドトス)による記録や『旧約聖書』における言及、そしてアッシリア人残した断片的な楔形文字文書限られ、その姿は曖昧な形でしかとらえることができない。 「メディア」という固有名詞文書史料上に初め登場するのは前835年または前834年のことである。アッシリア王シャルマネセル3世在位:前859年-前824年)の黒色オベリスク残され碑文によれば、この時シャルマネセル3世アマダイ(Amadai)からハルハル(Ḫarar)という土地攻め入った。このアマダイメディアを指す。前8世紀以降メディアアッシリアにとって重要な敵となり、アッシリア王たちはメディアに対して攻撃繰り返した。およそ100年後のティグラト・ピレセル3世在位:前745年-前727年)の記録においてもマダイMadai)を攻撃し略奪したことが記されている。シャルマネセル3世ティグラト・ピレセル3世の間のアッシリア王たちもメディアへの遠征行ったことが年名などの記録からわかるが、史料欠乏より詳細不明である。 同じ頃にメディアと共に近傍マンナエペルシアパルスア)がアッシリア人記録登場するうになるペルシア人登場メディア人よりやや早いが、これをもってペルシア人イラン高原への到来メディア人に先行するのであると見ることはできないアッシリア人記録正しいものと仮定するならば、当時ペルシア人オルーミーイェ湖ウルミヤ湖)の西から西南にかけて、メディア人はその東南現代のイラン・ハマダーン州周辺)にいたことになる。ハマダーン州エクバタナ(ハグマターナ、「集会所」の意、現在のハマダーン市)は後のメディア王国首都みなされる。ただしアッシリア人が語るパルスアアマダイマダイ)は必ずしもペルシア人メディア人という特定の集団を指すものではなく、前9世紀頃から「ペルシア人」や「メディア人」が居住していた地域そのものを指すと考えられる

※この「メディア人の登場」の解説は、「メディア王国」の解説の一部です。
「メディア人の登場」を含む「メディア王国」の記事については、「メディア王国」の概要を参照ください。

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