メタリカへの加入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 02:15 UTC 版)
「ジェイソン・ニューステッド」の記事における「メタリカへの加入」の解説
詳細は「メタリカ」を参照 1986年9月27日、メタリカのベーシストだったクリフ・バートンが、ヨーロッパ・ツアー中に事故死し、バンドは新しいベーシストを探し始めた。10月に入ってから、30人ほどの候補者をオーディションした結果、メタリカはニューステッドを採用した。メタリカのメンバーとして最初の公演は、カリフォルニア州ロサンゼルス郊外のレシーダにあった「カントリー・クラブ」においてであった。しかし、仲間を失い悲しみの淵にあった他のメンバー達に、ニューステッドが溶け込むことは容易ではなかった。ニューステッドはバンドの中で、悪戯やからかいの対象にされ、それは時間の経過と共に徐々に酷くなっていった。 ニューステッドがレコーディングに参加したのは、1987年のEP『メタル・ガレージ (The $5.98 E.P.: Garage Days Re-Revisited)』からである。それに続いた1988年のアルバム『メタル・ジャスティス (...And Justice For All)』は、その出来をめぐって、特に特徴的なベースの音が聴こえないことをめぐって、論争や批判に晒されることになった。ニューステッドは、これが、ラーズ・ウルリッヒとジェームズ・ヘットフィールドが仕掛けた通過儀礼的ないじめだったと述べているが、ウルリッヒとヘットフィールドは、このアルバムの仕上がりに不満だったのは皆同じだと述べている。ウルリッヒとヘットフィールドは、ニューステッドの弾くベースラインが、リズムギターのメロディラインと重なるようになっており、結果的に聴き手が両者を聴き分けられないほどになったとも述べている。しかし、このアルバムは、ビルボード誌のチャートで6位まで上がり、その後の成功への展望を切り開くものとなった。 1991年、メタリカはアルバム『メタリカ』(通称『ブラック・アルバム』)を発表し、これによってスターダムの頂点に上り詰めた。ツアーに明け暮れる時期を経て、グループは必要になっていた長い休暇をとった。その後、1996年には『ロード』、続けて1997年にはアルバム『リロード』、1998年にはカヴァー・アルバム『ガレージ・インク』、1999年にはライヴ・アルバム『S&M』が発表され、2000年には映画『ミッション:インポッシブル2』のサントラになったシングル「アイ・ディスアピア」が大ヒットとなった。 この間、ニューステッドは、1998年に英国のダンス音楽プロジェクト「アンクル」のアルバム『サイエンス・フィクション』に曲を提供した。ちなみに、メタリカ在籍中、ニューステッドは3曲しか作者としてクレジットされず、その3曲("Blackened"、"My Friend of Misery"、"Where the Wild Things Are")は、いずれもシングルにはなっていない。 2000年、ニューステッドは、メタリカとは別に、サイド・プロジェクトとしてエコーブレインを立ち上げた。5月にスタジオに入ってデモの録音をはじめ、当時メタリカで同僚だったカーク・ハメットや、フェイス・ノー・モアのギタリストジム・マーティンらもこれに参加した。このプロジェクトを資金的に支えたのはニューステッドであり、後に彼は、これで大金を失ってしまったと述べている。ニューステッドが、サイド・プロジェクトに入れ込んでいったことは、メタリカの内部に緊張を生むことになった。
※この「メタリカへの加入」の解説は、「ジェイソン・ニューステッド」の解説の一部です。
「メタリカへの加入」を含む「ジェイソン・ニューステッド」の記事については、「ジェイソン・ニューステッド」の概要を参照ください。
- メタリカへの加入のページへのリンク