メイクアップアーティストへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 13:38 UTC 版)
「植村秀」の記事における「メイクアップアーティストへ」の解説
植村が初めて映画のメイクアップを経験したのは、1957年の映画『ジョー・バタフライ(英語版)』(Joe Butterfly)の日本での撮影にメイクアップアシスタントとして参加したときだった。植村は1950年代後半に日本を離れ、映画やテレビのメークアップビジネスに参入しようとした。 植村がブレイクしたのは、1962年の映画『青い目の蝶々さん』(My Geisha)の撮影においてだった。当時、ハリウッドで美容師をしていた植村は、この映画を担当していたメイクアップアーティストが病気になったため、その代役として急遽呼ばれた。植村は、女優のシャーリー・マクレーンに芸者のメイクを施し、高い評価を得た。また、この映画の製作者やマクレーンら出演者からも賞賛された。この評判により、植村はハリウッドでも人気の高いアーティストとなった。植村はメイクアップアーティストの見習いとして、エドワード・G・ロビンソン、フランク・シナトラ、ルシル・ボールなどといったハリウッドの著名人の仕事に関わるようになった。フランク・シナトラが出演した1965年の日米合作映画『勇者のみ』(None but the Brave)のメイクアップを担当したのが、初期の代表的な仕事だった。 植村は1960年に最初の化粧品を開発・発売した。最初の商品はクレンジングオイルで、石鹸よりもきれいな洗い上がりで、保湿効果もあり、今でも日本で人気の商品である。植村は、化粧品は顧客の肌の健康が第一であるというメイクアップ哲学を持っていた。また、化粧品で人為的に作るのではなく、その人が本来持っている美しさを引き出すことを信条としていた。
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