ムイーヌッディーン・ウヌルの統治とは? わかりやすく解説

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ムイーヌッディーン・ウヌルの統治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/12 15:41 UTC 版)

ブーリー朝」の記事における「ムイーヌッディーン・ウヌルの統治」の解説

詳細は「ムイーヌッディーン・ウヌル」を参照 1139年7月、ズムッルド妃からマフムード暗殺されたことと暗殺者罰してほしいと便り受け取りザンギーダマスカス向かったが、ホムスからダマスカス引き上げたダマスカス実質的に支配しマフムード後継者ムハンマドアタベクとなっていたウヌルのもと、ダマスカス市内守り固め、再びエルサレム王国連合したザンギーダマスカスの重要拠点バールベクをまず攻撃した時間がかかり、その間ウヌルは友人年代記作家ムンキズを通じエルサレム王国保護下に入る協定結んだ。いわく、ダマスカスザンギー遠ざける危急の際はダマスカスエルサレムの軍は統合されるダマスカスエルサレム戦費払いザンギー支配下の砦をエルサレムとともに攻める、ダマスカス名家の子弟を人質として差し出すなどである。 1140年4月ダマスカス迫ったザンギーは、エルサレム王国救援前に挟み撃ち恐れて攻撃あきらめ引き返した同年、ダマスカス・エルサレム連合軍ザンギーの砦バニヤース攻囲しザンギー駆けつけたがすぐに放棄したダマスカスはこれをエルサレム引渡し、ウヌルはエルサレム公式訪問するなど両国交流深めた以後ザンギーはいくつもの勝利を手にしムスリム希望となりながらついにダマスカス手にすることなく1146年暗殺されたが、その次男敬虔なムスリム・ヌールッディーンがアレッポ拠点ザンギー朝事業継いだ。彼はたちまちシリアの諸領主平定していった。 1147年からの第2回十字軍では、西洋から来た諸王ダマスカス攻囲戦行ったが、ウヌルはヌールッディーンらを援軍として呼ぶ一方エルサレム王国との協定など土着化した十字軍諸侯とのつながり生かしてキリスト教徒軍の分断図り1148年ルイ7世コンラート3世をわずか4日撤退させた。これを最後にウヌルは死に、トゥグ・テギーンの子孫である未成年アバク名目上君主になる。アバクエルサレム王国連合しつつ権力死守ようとするが、イスラム世界庶民への宣伝巧みさで知られヌールッディーンは、市民対し十字軍との密約をなじりムスリムの側に立つよう呼びかける工作行いついには包囲の末1154年ダマスカス無血開城させた。ここにようやくダマスカス外部の主を受け入れのであるヌールッディーン新し拠点ダマスカス得て十字軍諸侯追放事業進め、やがてその事業はザンギーヌールッディーン2代有能な右腕だったシール・クーフの甥、サラディン受け継ぐ

※この「ムイーヌッディーン・ウヌルの統治」の解説は、「ブーリー朝」の解説の一部です。
「ムイーヌッディーン・ウヌルの統治」を含む「ブーリー朝」の記事については、「ブーリー朝」の概要を参照ください。

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