ムイーヌッディーン・ウヌルの統治
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「ブーリー朝」の記事における「ムイーヌッディーン・ウヌルの統治」の解説
詳細は「ムイーヌッディーン・ウヌル」を参照 1139年7月、ズムッルド妃からマフムードが暗殺されたことと暗殺者を罰してほしいとの便りを受け取り、ザンギーはダマスカスに向かったが、ホムスからダマスカスに引き上げた後ダマスカスを実質的に支配し、マフムードの後継者ムハンマドのアタベクとなっていたウヌルのもと、ダマスカス市内は守りを固め、再びエルサレム王国と連合した。ザンギーはダマスカスの重要拠点バールベクをまず攻撃したが時間がかかり、その間ウヌルは友人の年代記作家ムンキズを通じエルサレム王国の保護下に入る協定を結んだ。いわく、ダマスカスはザンギーを遠ざける、危急の際はダマスカスとエルサレムの軍は統合される、ダマスカスはエルサレムに戦費を払いザンギー支配下の砦をエルサレムとともに攻める、ダマスカスは名家の子弟を人質として差し出すなどである。 1140年4月ダマスカスに迫ったザンギーは、エルサレム王国の救援の前に挟み撃ちを恐れて攻撃をあきらめ引き返した。同年、ダマスカス・エルサレム連合軍はザンギーの砦バニヤースを攻囲し、ザンギーも駆けつけたがすぐに放棄した。ダマスカスはこれをエルサレムに引渡し、ウヌルはエルサレムを公式訪問するなど両国は交流を深めた。 以後、ザンギーはいくつもの勝利を手にしムスリムの希望となりながらついにダマスカスを手にすることなく1146年暗殺されたが、その次男で敬虔なムスリム・ヌールッディーンがアレッポを拠点にザンギー朝の事業を継いだ。彼はたちまちシリアの諸領主を平定していった。 1147年からの第2回十字軍では、西洋から来た諸王はダマスカス攻囲戦を行ったが、ウヌルはヌールッディーンらを援軍として呼ぶ一方、エルサレム王国との協定など土着化した十字軍諸侯とのつながりを生かしてキリスト教徒軍の分断を図り、1148年、ルイ7世とコンラート3世をわずか4日で撤退させた。これを最後にウヌルは死に、トゥグ・テギーンの子孫である未成年のアバクが名目上の君主になる。アバクはエルサレム王国と連合しつつ権力を死守しようとするが、イスラム世界や庶民への宣伝の巧みさで知られたヌールッディーンは、市民に対し、十字軍との密約をなじりムスリムの側に立つよう呼びかける工作を行い、ついには包囲の末1154年ダマスカスを無血開城させた。ここにようやくダマスカスは外部の主を受け入れるのである。 ヌールッディーンは新しい拠点ダマスカスを得て十字軍諸侯追放の事業を進め、やがてその事業はザンギーとヌールッディーン2代の有能な右腕だったシール・クーフの甥、サラディンが受け継ぐ。
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