ムイーヌッディーン・ウヌルの登場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/17 03:38 UTC 版)
「ムイーヌッディーン・ウヌル」の記事における「ムイーヌッディーン・ウヌルの登場」の解説
もともとはブーリー朝の始祖トゥグテキンのマムルークであった。トゥクテギン死後も引き続きブーリー朝に仕えていたようである。1135年、ブーリー朝の君主イスマーイールが自身の暗殺計画を知って疑心暗鬼になり、ザンギーに町を引き渡そうとした。ところが、ダマスカス市民は先年来のザンギーの不誠実さを知っていたのでこれを阻止しようとし、イスマーイールの母親ズムッルド妃に訴えるところとなる。ズムッルドはイスマーイールを殺害し、別の息子マフムードを擁立してザンギーの来訪に備えた。この報せを無視し、ザンギーはダマスカスを接収しようと街を包囲したが、ダマスカスは守りを固めた。この時、防戦の指揮を取ったアミールがムイーヌッディーン・ウヌルであった。イブン・アル=アシールは彼の活躍を以下のように伝えている。 「このダマスカスの危機にあって重要な役割を果たしたのがムイーヌッディーン・ウヌルであった。彼の籠城戦と軍事に関する知識と能力は余人を寄せ付けず、後に彼が台頭しこの領邦を掌握する要因ともなる」 この戦闘はアッバース朝カリフ、ムスタルシドが仲介に入り、ザンギーは退いていった。1137年、ウヌルはマフムードからアタベク号を受け、総司令官職(イスファサラール)に任じられた。
※この「ムイーヌッディーン・ウヌルの登場」の解説は、「ムイーヌッディーン・ウヌル」の解説の一部です。
「ムイーヌッディーン・ウヌルの登場」を含む「ムイーヌッディーン・ウヌル」の記事については、「ムイーヌッディーン・ウヌル」の概要を参照ください。
- ムイーヌッディーン・ウヌルの登場のページへのリンク