ミノルタ製カメラの歴史
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1929年発売のベスト判カメラ「ニフカレッテ」に始まる。その後二眼レフカメラを得意としていたが、1947年発売の「ミノルタ35」を皮切りに次第に35ミリカメラに開発の比重を移していくこととなる。 1962年、NASAの厳しい試験をクリアした35mmレンズシャッターカメラ「ハイマチック」がジョン・ハーシェル・グレン中佐が乗り込むフレンドシップ7号の宇宙飛行用カメラとして採用され、フレンドシップ7号にちなんで製品名称に7を多用するようになる。ミノルタのカメラが普及した背景には技術力もさることながらミノルタのCM戦略も大きかった。 1980年、当時大学生の宮崎美子を起用した「X-7」のCMが大ヒット、X-7は瞬く間に当時のベストセラーモデルとなった。 1985年発売、世界初のシステム一眼レフカメラ「α-7000」に始まるオートフォーカス一眼レフカメラのαシリーズは、マニュアルフォーカスとの互換性をなくし絞りもボディー側から電子制御する等、電子化された新マウントミノルタAマウントを採用し、第1回ヨーロピアン・カメラ・オブ・ザ・イヤーを受賞するなど日本のみならず世界中でのヒットとなったが、1987年にアメリカ合衆国ハネウェル社が、同社の保有するオートフォーカス技術の特許侵害で訴訟を起こし、ミノルタは約1億ドルもの和解金を支払うこととなった。この特許侵害訴訟ではサブマリン特許という概念が日本企業に認知された。 詳細は「ミノルタ・ハネウェル特許訴訟」を参照 このハネウェルとの特許訴訟に敗れたことに加え、キヤノン・ニコンが地道に改良を重ね、やがてカメラの売上でミノルタを上回るようになる。デジタルカメラの開発では競合他社に大きく遅れをとり、2003年にコニカと合併しコニカミノルタホールディングスとなってからも、CCDイメージセンサを動かすことで手ぶれを補正する「アンチシェイク」など独自の技術で他社に挑んだものの努力は実らず、次第に業績が悪化。 2006年1月19日、コニカミノルタホールディングスは翌2006年3月末に写真フィルムからレンズ・カメラに至る全ての写真関連分野から撤退することを発表した。「α」ブランドを含むデジタル一眼レフカメラについては先に提携を発表していたソニーに譲渡し、同時期をもって長年続いたミノルタのカメラ事業は幕を閉じた。 詳細は「ミノルタのカメラ製品一覧」を参照
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