マーハム・アナガの排除
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/05 03:07 UTC 版)
だが、アクバルはバイラム・ハーンを追放してもまだ実権を掌握できなかった。バイラム・ハーン失脚後、その追い落としを計画したアクバルの乳母マーハム・アナガが最高権力者となったからである。 バイラム・ハーンの後任である宰相バハードゥル・ハーンはマーハム・アナガの傀儡でしかなく、政権は彼女の息子アドハム・ハーンやその与党によって組織されていた。ヴィンセント・スミスは彼女の一党で固められた体制を「ペチコート・ガヴァメント」と呼んでいる。 だが、マーハム・アナガの息子でアクバル乳兄弟たるアドハム・ハーンがその立場を危うくした。1560年にアドハム・ハーンはピール・ムハンマド・ハーンとともにマールワーへと遠征に行き、1561年に同地方を占領した。だが、アドハム・ハーンはマールワーの支配者バーズ・バハードゥルを取り逃がし、その才色兼備の詩人ループマティーを自死させてしまった。さらに、アドハム・ハーンは君主に戦利品を全て送る慣習を破るという重大な過ちを犯した。アクバルは当然この権利を主張し、自らマールワーに向かいその独善を抑えたため、アドハム・ハーンとの仲は非常に悪くなった。 1561年、ジャウンプルを統治していたウズベク人貴族ハーン・ザマーンが叛意を示したため、アクバルは東方に軍を進めて一時的ではあったものの、これを服従させた。同年末、アクバルはマーハム・アナガ子飼いの宰相バハードゥル・ハーンを罷免し、アトガ・ハーンを宰相に任命した。先帝フマーユーン以来の重臣である彼はマーハム・アナガ一派に対抗しうる存在で、彼の妻ジージー・アナガもアクバルの乳母だったため、アクバルから彼は「養父」と呼ばれていた。 一方、4月にマーハム・アナガの派閥は振るわず、アドハム・ハーン帰還後もマールワー遠征を行っていたピール・ムハンマド・ハーンが川で溺れて死亡してしまった。また、重臣ムヌイム・ハーンはアトガ・ハーンとの対立から、アドハム・ハーンにその暗殺を唆していた。調子に乗りやすかったアドハム・ハーンはムヌイム・ハーンに唆され、彼自身もアトガ・ハーンが宰相であることが気にくわなかったため、その暗殺を計画した。 1562年5月16日、アドハム・ハーンは大勢の部下を連れ、アーグラ城の公謁殿で会合をしていたアトガ・ハーンを短剣で刺し殺してしまった。このとき、アクバルは寝殿で睡眠中だったが、騒ぎで目をさまし、事態を察して公謁殿へと向かった。一方、アドハム・ハーンは公謁殿を後にして後宮の前で中に入れるよう訴えていたが、テラスでアクバルと遭遇してしまった。アクバルは「よくも私の養父を殺したな」と言い、膝を屈したアドハム・ハーンは殴られて床にたたきつけられた。それから、アドハム・ハーンは脳髄が流れ出るようテラスから逆さにして2度にわたり放り投げられ、あえなく絶命した。 マーハム・アナガはこのときデリーにいたが、アドハム・ハーンの処刑を聞いてすぐさまアーグラへと駆けつけた。彼女はアクバルと面会すると、アクバルは自ら丁寧に事の次第をすべて話した。彼女はただ「陛下はよくなさいました」と言い、そのショックから立ち直れずに40日後に死亡した。 ムヌイム・ハーンはアーグラから逃げたものの捕えられ、アーグラに連行された。アクバルは彼を赦してその称号も回復させたが、その権力はすべて奪い単なる一武将とした。
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