マウントホープへの行軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/08 03:31 UTC 版)
「イニーアス・マッキントッシュ」の記事における「マウントホープへの行軍」の解説
1915年9月1日、3人ずつチームになった9人が約5,000ポンド (2,300 kg) の物資を、エバンス岬の基地からロス棚氷に移す任務を始めた。これはベアドモア氷河の麓にあるマウントホープまで、緯度にして1度(60海里、110 km、69法廷マイル)ずつに物資を置いて行くための最初の行程だった。北緯79度の直ぐ北のブラフ補給所に大型の前進基地が設けられ、そこからマウントホープまで最後の行軍が1916年初期にも始められる予定だった。この初期行程の間に、その方法についてマッキントッシュは何度もジョイスと衝突した。11月28日にあった山場では、自分の言う方法よりも文句なしに効率の良いジョイスの方法の証拠を見せられ、マッキントッシュはジョイスとリチャーズが書いた改定計画を受け入れざるを得なくなった。ジョイス自身のコメントは「人を働かせるためにこれほど愚かなことに出くわしたことは、わたしの経験ではなかった」としていた。 ブラフ補給所から南に向かう主たる行軍は1916年1月1日に始まった。それから数日のうちに3人組の1つが、ストーブの故障に続いて基地に戻らざるを得なくなった。他の6人は先を続けた。マッキントッシュ、ジョイス、アーネスト・ワイルド、ディック・リチャーズ、アーノルド・スペンサー・スミス、ジョン・ヘイワードの6人だった。南緯80度に前年に置いた補給所を補強し、81度と82度では新しい補給所が作られた。隊がマウントホープに近づくに連れて、マッキントッシュと、遠征隊の写真家であるスペンサー・スミスが足を引きずるようになった。南緯83度を過ぎると直ぐに、スペンサー・スミスが倒れてテントに残され、他の者で残り数マイルを進んだ。マッキントッシュは、病人と一緒に留まるべきという提案を拒否し、全ての補給所を完成させるのが自分の任務であると主張した。1月26日、マウントホープに達し、最後の補給所が設置された。 帰還の道ではスペンサー・スミスを橇に載せる必要があった。マッキントッシュの体調は急速に衰えていた。橇を引くことができずに、その横でよろめき、壊血病がひどくなって足を引きずっていた。マッキントッシュはその状態が悪くなると、何度も何度もスペンサー・スミスと共に橇の乗客になった。橇を引くメンバーが凍傷、雪盲、さらには壊血病という重荷を負った中で、その旅は生き残りのための大変な闘争だった。3月8日、マッキントッシュがテントに残ることにし、他のメンバーがスペンサー・スミスを連れて比較的安全なハット・ポイントまで運ぶことになった。スペンサー・スミスは翌日死んだ。リチャーズ、ワイルド、ジョイスが、次に倒れたヘイワードをハット・ポイントまで運び、その後にマッキントッシュを救出に戻って来た。3月18日までに残った5人全員がハット・ポイントで体力を回復させていた。シャクルトンの伝記作者であるマージョリーとジェイムズ・フィッシャーは、「南極探検の歴史において、最も注目すべき、かつ明らかに不可能な、忍耐の功績」が完了したことになった。
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