ポーランド王子のモスクワ入城とツァーリ即位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/23 15:01 UTC 版)
「ロシア・ポーランド戦争 (1605年-1618年)」の記事における「ポーランド王子のモスクワ入城とツァーリ即位」の解説
シュイスキーの廃位後、ジュウキェフスキと偽ドミトリー2世は別々に軍を率いモスクワに到着した。この時、二つの軍に同時に包囲されてしまったモスクワでは緊張が張り詰め、小競り合いが起こり、親ポーランド派・反ポーランド派・スウェーデン派や国内派の様々なボヤーレたちが事態を収拾しようと競っていた。ロシア人の兵士たちも庶民も、ジュウキェフスキと偽ドミトリー2世の両軍が、侵略軍であり城門を閉ざして籠城すべきなのか、解放軍であり味方として迎えに出るべきなのか、分からなかった。 やがて親ポーランド派が主導権を握り、1610年10月8日、ポーランド軍がモスクワに入城した。ボヤーレたちは城門を開けてポーランド軍を迎え、ジュウキェフスキに無政府状態からロシアを救ってほしいと頼んだ。モスクワのクレムリンにはアレクサンデル・コルヴィン・ゴシェフスキ率いるポーランド兵が駐屯した。これに先立つ7月27日、ボヤーレたちとジュウキェフスキの間で、ジグムント3世の息子ヴワディスワフを新しいツァーリに認めることと引き換えに、ロシアのボヤーレたちにポーランドのシュラフタ同様の広い特権を持てることを約束するという条約が交わされていた。しかしジュウキェフスキは、スモレンスクに留まっているジグムント3世が全く異なった考えを持っていることを知らなかった。 ジュウキェフスキと偽ドミトリー2世は、当初の気の進まない同盟関係から、次第に距離が離れていった。偽ドミトリー2世はポーランド宮廷における影響力を喪失し、ジュウキェフスキは最終的にドミトリーをモスクワから追い出す工作をした。またジュウキェフスキはポーランド人を、特に15歳のヴワディスワフを次のツァーリに選ぶよう各方面に工作を始めた。以前、大動乱の初期に、リベラルなポーランド・リトアニアからヴワディスワフ王子をツァーリに招いて、当時のツァーリの専横を終わらせようとボヤーレたちが動いたことがあった。 ジュウキェフスキの工作で、ボヤーレたちのうちの親ポーランド派(クニャージのフョードル・ムスティスラフスキー、ヴァシーリー・ガリツィン、フョードル・シェレメテフ、ダニール・メゼツキー、およびディヤークのヴァシーリー・テレプニョフ、トミウォ・ワゴフスキ)らが主導権を握り、ボヤーレの多数派が、もしヴワディスワフが正教会に改宗し、ポーランド・リトアニア共和国が戦争で占領したロシアの都市を返還するならば彼がツァーリになることを支援した。 より敬虔なカトリック信者のシュラフタたちに囲まれていたジグムント3世は、王子の改宗には断固反対した。この一件からポーランド・リトアニア・モスクワ連合国家の計画は破綻し始める。ジグムント3世の反対に気分を害され怒ったボヤーレらはヴワディスワフ支持から手を引き、大貴族ゴリツィン家のヴァシーリー・ゴリツィンを推す者、ロマノフ家のミハイル・ロマノフ(ヴワディスワフと同じく15歳)を推す者、あるいは偽ドミトリー2世を推す者などへと分かれ始めた。ジュウキェフスキはこれに対して素早く動き、まだモスクワに現れていないジグムント王の同意を得ることなくボヤーレたちと約束を交わし、ヴワディスワフをツァーリに選出させることに成功した。 この選挙の後、偽ドミトリー2世はモスクワ近郊のトゥシノの陣営から本拠のカルーガへ逃げた。しかしここでも彼の地位は不安定になっていた。1610年12月11日、半分酔っていた偽ドミトリー2世は、彼を支持するボヤーレたちの中にいた、かつて彼が鞭打ったことのあるカシモフ・ハン国の王子ピョートル・ウルソフによって射殺された。妻マリナ・ムニーシェヴァは逃げのびたが、この時彼女は偽ドミトリー2世との間にできた「世継ぎ」、イヴァン・ドミトリエヴィチを孕んでいた。彼女はこの後もしばらく、1614年の死まで、ロシア内戦の重要な要素となる。
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