ボルボン朝の崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 15:29 UTC 版)
「イスパノアメリカ独立戦争」の記事における「ボルボン朝の崩壊」の解説
詳細は「バイヨンヌの譲位(英語版)」、「ジョゼフ・ボナパルト治世下のスペイン」、および「半島戦争」を参照 半島戦争が正当な君主の不在という状況を引き起こしたことはイスパノアメリカにおける紛争の引き金になったのと同時に、1823年まで続く長きにわたるスペイン帝国の政情不安の始まりとなった。ナポレオンがカルロス4世とフェルナンド7世を捕らえたことは政治危機を引き起こした。弟のジョゼフ・ボナパルトをスペイン王に据えるというナポレオンの計画はスペイン帝国のほぼ全体で拒否されたが、国王不在の状況の解決策はなかった。君主制は君主と臣民との契約であることを示したフランシスコ・スアレス以来の伝統的なスペインの政治理論に即して、イベリア半島諸州はフンタを結成した。しかし、各地のフンタの中心となる権威が存在せず、一部のフンタの王国全体を代表するという主張が大半のフンタに承認されなかったという状況はいたずらに混乱を増大させただけだった。例えば、セビリアのフンタは同州が伝統的に帝国唯一の中継貿易港(英語版)を務めたことから海外植民地への統治権も主張した。 この行き詰まりを解決するために、スペイン各地のフンタとカスティーリャ委員会(英語版)が交渉して、1808年9月25日の最高中央評議会成立につながった。半島の諸王国が評議会に代表を2名ずつ、海外の諸王国が代表を1名ずつ派遣するとした。海外の諸王国は「ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)、ペルー、ヌエバ・グラナダ、ブエノスアイレスの各副王領、そしてキューバ(英語版)、プエルトリコ、グアテマラ、チリ(英語版)の独立した総督領、ベネズエラ(英語版)、フィリピンの各県」と定義された。この代表数は不公平と批判されたが、各地域の首都では批判をよそに1808年末から1809年初にかけて代表が選出され、当選者の名前が副王領や総督領の首都に伝えられた。いくつかの重要な大都市が最高中央評議会に代表を送ることができず、特にキトとチュキサカは王国の首都と自負していたため、ペルー副王領に組み込まれることに不満だった。結果的には1809年に両都市でフンタが成立したが(es:Primera Junta de Gobierno Autónoma de Quito、チュキサカ革命(英語版))、いずれも同年に鎮圧され、ヌエバ・エスパーニャのフンタ成立の試みも挫折した。
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