ホセ・デ・リベラとは? わかりやすく解説

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ホセ・デ・リベラ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 05:02 UTC 版)

スペイン黄金時代美術」の記事における「ホセ・デ・リベラ」の解説

ホセ・デ・リベラは1591年バレンシア近郊生まれたが、1615年まで確固とした足取り掴めない画家である。ただ1610年程から北イタリア周遊パルマにいたことが分かっている。北イタリア自然主義会得し、それからローマへ移りカラヴァッジョバロック絵画生身体感する。リベラの持つ重たい黒の表現や、人を美化せずその醜い部分までも鮮明に描写する作風カラヴァッジョから学んだものと言えるまた、当時ローマ様々な地域から絵の留学生集っていたため、ネーデルラント系の画家たちとの交流の跡が見られる作品もある。そして1616年ローマで学んでいたサン・ルカ美術アカデミー別れ告げて当時スペイン飛び地領土であったナポリ向かった。 着くや否やオスナ公爵抱えられ彼のために絵筆振るうことになる。劇的な明暗法迫力ある筆致磨きがかかり、一気ナポリ周辺画家盟主となっていった。経済的に安定して歴代スペイン副王からの受注答えたエッチングにも長け版画によって広範な影響をあたえることになる。当時ナポリ屈指の絵画コレクターであるガスパール・ローメルのコレクション、特にルーベンスやその弟子であるヴァン・エイクらの作品から学んだ。しかし彼の前期キャリア観るとやはりカラヴァッジョ影響圧倒的である。 1629年にはセビリアアルカラ公爵受注入り肖像画デモクリトス』を含んだ作品群描いた。この作品完成され写実性明暗法からリベラ代表作とされる公爵との実り深い交流によって様々な傑作が海を越えてセビリア入ってきた。そのためセビリアにいたスルバランアロンソ・カーノなどに大きな影響与えたのだった。 自らも1630年代半ばからローマにいたフランス系画家たち例えクロード・ロラン風景画影響を受け、これまでの陰影法とはまるで違う牧歌的鮮やかな青を試したりしている。カラヴァッジョ風からリベラ独自の芸術を創り上げるべく、研鑽つづけた。その成果と言えるのが『ヤコブの夢』である。人物のずば抜けた写実性はもちろんであるが背景表現カラヴァッジョから離れていることが分かるこのように独自の道を切り開いて、ますます名声確かなものにするのだった

※この「ホセ・デ・リベラ」の解説は、「スペイン黄金時代美術」の解説の一部です。
「ホセ・デ・リベラ」を含む「スペイン黄金時代美術」の記事については、「スペイン黄金時代美術」の概要を参照ください。

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