ホセ・デ・リベラ
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「スペイン黄金時代美術」の記事における「ホセ・デ・リベラ」の解説
ホセ・デ・リベラは1591年バレンシア近郊で生まれたが、1615年まで確固とした足取りが掴めない画家である。ただ1610年程から北イタリアを周遊しパルマにいたことが分かっている。北イタリアの自然主義を会得し、それからローマへ移りカラヴァッジョらバロック絵画を生身で体感する。リベラの持つ重たい黒の表現や、人を美化せずその醜い部分までも鮮明に描写する作風はカラヴァッジョから学んだものと言える。また、当時ローマは様々な地域から絵の留学生が集っていたため、ネーデルラント系の画家たちとの交流の跡が見られる作品もある。そして1616年にローマで学んでいたサン・ルカ美術アカデミーに別れを告げて、当時スペインの飛び地的領土であったナポリへ向かった。 着くや否やオスナ公爵に抱えられ、彼のために絵筆を振るうことになる。劇的な明暗法や迫力ある筆致に磨きがかかり、一気にナポリ周辺の画家の盟主となっていった。経済的にも安定して歴代スペイン副王からの受注も答えた。エッチングにも長け版画によって広範な影響をあたえることになる。当時ナポリ屈指の絵画コレクターであるガスパール・ローメルのコレクション、特にルーベンスやその弟子であるヴァン・エイクらの作品から学んだ。しかし彼の前期のキャリアを観るとやはりカラヴァッジョの影響が圧倒的である。 1629年にはセビリアのアルカラ公爵の受注が入り、肖像画『デモクリトス』を含んだ作品群を描いた。この作品は完成された写実性と明暗法からリベラの代表作とされる。公爵との実り深い交流によって様々な傑作が海を越えてセビリアに入ってきた。そのためセビリアにいたスルバランやアロンソ・カーノなどに大きな影響を与えたのだった。 自らも1630年代半ばからローマにいたフランス系の画家たち、例えばクロード・ロランの風景画に影響を受け、これまでの陰影法とはまるで違う牧歌的で鮮やかな青を試したりしている。カラヴァッジョ風からリベラ独自の芸術を創り上げるべく、研鑽をつづけた。その成果と言えるのが『ヤコブの夢』である。人物のずば抜けた写実性はもちろんであるが背景の表現はカラヴァッジョから離れていることが分かる。このように独自の道を切り開いて、ますます名声を確かなものにするのだった。
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