ベルケとイスラーム
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ベルケはモンゴル王族においてイスラム教徒(ムスリム)であったことが確認できる最も早い人物のひとりである。彼の生涯は『集史』などではあまり詳しく記載されていないが、奴隷王朝の君主イルトゥトゥミシュに仕えた同時代人である歴史家ジューズジャーニーは、その主著『タバカーテ・ナースィリー』(1259年-1260年完成)において、ベルケの出自について述べている。 それによると、ジョチがブルガール方面へ遠征したときに生まれ、ジョチはそのわが子をムスリムにすることを望んで、へその緒を切る役も乳母もムスリムの人物に託したという。また、幼少時代からムスリムとしての教育を信頼に足るムスリムの学者に任せ、コーランの知識をマー・ワラー・アンナフルの都市のホジェンドで敬虔なムスリムから教授されたといい、適齢期には割礼も行い、成長してジョチ家で軍民を統率する立場を得ると、ジョチ・ウルス麾下のムスリム部隊の全てが彼の指揮下に置かれた、と伝えている。その軍団の規模はバトゥの統治時代からムスリムの騎士3万人であったといい、彼の軍団は常に礼拝を欠かさなかったと述べる。 一方1233年頃にベルケは奴隷王朝へ友好使節を送ったが、奴隷王朝とモンゴル帝国とは敵対していたためイルトゥトゥミシュはこれを偵察か策略のたぐいと疑い使節を追放した、とも述べている。その使節も全てムスリムであったという。時期をみてよく中央アジアの主要なイスラームの聖地に参拝に出かけ、ブハーラーへも参詣に訪れた。またアッバース朝カリフへも複数回友好の使節を送った、とその事蹟を簡略に記録している。 先代: ウラクチ ジョチ・ウルス 1257年 - 1266年 次代: モンケ・テムル 典拠管理 GND: 1027304044 ISNI: 0000 0004 0210 7477 LCCN: no2013022345 TDVİA: berke-han VIAF: 296907013 WorldCat Identities: lccn-no2013022345
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