ベルケとイスラームとは? わかりやすく解説

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ベルケとイスラーム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 14:30 UTC 版)

ベルケ」の記事における「ベルケとイスラーム」の解説

ベルケモンゴル王族においてイスラム教徒ムスリムであったことが確認できる最も早い人物のひとりである。彼の生涯は『集史』などではあまり詳しく記載されていないが、奴隷王朝君主イルトゥトゥミシュ仕えた同時代人である歴史家ジューズジャーニーは、その主著『タバカーテ・ナースィリー』(1259年-1260年完成)において、ベルケ出自について述べている。 それによると、ジョチブルガール方面遠征したときに生まれジョチはそのわが子をムスリムにすることを望んでへその緒を切る役も乳母ムスリム人物託したという。また、幼少時代からムスリムとしての教育信頼に足るムスリム学者任せコーラン知識マー・ワラー・アンナフル都市ホジェンド敬虔なムスリムから教授されたといい、適齢期には割礼行い成長してジョチ家軍民統率する立場を得ると、ジョチ・ウルス麾下ムスリム部隊全て彼の指揮下に置かれた、と伝えている。その軍団規模バトゥ統治時代からムスリム騎士3万人であったといい、彼の軍団は常に礼拝を欠かさなかったと述べる。 一方1233年頃にベルケ奴隷王朝友好使節送ったが、奴隷王朝モンゴル帝国とは敵対していたためイルトゥトゥミシュはこれを偵察策略のたぐいと疑い使節追放した、とも述べている。その使節全てムスリムであったという。時期をみてよく中央アジア主要なイスラーム聖地参拝に出かけ、ブハーラーへも参詣訪れた。またアッバース朝カリフへも複数友好使節送った、とその事蹟を簡略に記録している。 先代: ウラクチ ジョチ・ウルス 1257年 - 1266年 次代: モンケ・テムル 典拠管理 GND: 1027304044 ISNI: 0000 0004 0210 7477 LCCN: no2013022345 TDVİA: berke-han VIAF: 296907013 WorldCat Identities: lccn-no2013022345

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