ベネズエラおよびアラスカでの国境紛争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 09:07 UTC 版)
「英米関係」の記事における「ベネズエラおよびアラスカでの国境紛争」の解説
1895年に、アメリカ合衆国を絡めたベネズエラ危機が勃発した。 英領ギアナとベネズエラ間の国境紛争は、アメリカがベネズエラ側に加担して介入した際に大きな英米危機を引き起こした。イギリスがベネズエラの領土を侵害しているという、ベネズエラによる後ろ盾のあるプロパガンダがアメリカ世論を納得させた。アメリカが説明を求めるも、英首相のソールズベリーはこれを拒否した。1895年後半に グローバー・クリーブランド大統領がモンロー教書を引用して最後通牒を発した時、この危機が一気に高まった。ソールズベリー内閣は首相自ら仲裁に出向く必要があると本人を説得した。双方が冷静になるとこの問題は仲裁によって迅速に解決され、アメリカは問題の法的境界線についてイギリスの立場を概ね支持した。ソールズベリーの怒りは収まらなかったが、ランズダウン侯爵の主導もあり、ロンドン政府ではアメリカとのより友好的な関係を模索するとのコンセンサスに達した。イギリスの侵略に反対してラテンアメリカ諸国側に立つことで、アメリカ合衆国はラテンアメリカ諸国との関係を改善し、誠意ある手続きの順番はイギリスとの外交関係を改善した。 1897年のオルニー=ポンスフォート条約は、1897年にアメリカとイギリスの間で提案された条約であり、主要な紛争の調停を求めたものだった。広い一般支持および上流階級の支持があったにもかかわらず、この条約はアメリカ上院議会によって拒否され、その特権を恨まれるも上院は決して批准しなかった。 アラスカとカナダの境界をめぐる紛争を解決するために調停が行使されたが、カナダ人はその結果に裏切られたと感じた。1867年のアラスカ購入は曖昧な形でカナダとアラスカの境界を引いた。1898年には、ユーコン準州でのゴールドラッシュで鉱山労働者はアラスカから入らなければならず、カナダは独自の海港を獲得すべく境界線の引き直しを要望した。アメリカにある港の長期リースというアメリカの提案をカナダが拒否したことで、この問題は調停行きとなり、1903年にアラスカ境界紛争は調停によって最終解決された。調停委員会でイギリスの判事がカナダの判事2人に対してアメリカの判事3人側に回った時、この決着がアメリカに有利なものとなった。カナダの世論は、自分達の利益がロンドン政府によって米英協調という利益の犠牲にされたことに激怒した。
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