プロサーファー引退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 09:14 UTC 版)
1980年 プロサーフィン競技活動から引退。サーフィンをはじめマリン・ビーチスポーツのDJ 「海」「海岸」全体のプロデュース&プロモーション活動に入る。 サーフィンワールド誌の編集長。兼一般雑誌フリー記者(POPEYE・Fine等)&カメラマンとして活動。 1981年 丸井プロサーフィン世界選手権大会をプロデュース。世界ルール改正、競技解説、イベントDJも兼務 1982年 A.S.P.(アソシエーション.サーフィン.プロフェッショナルズ世界プロサーフィン運営組織)理事に就任。 世界をまわるプロサーフィンツアーのメディア担当として、世界中のビーチを取材活動する。 サーフィンだけでなく世界の海岸の様々な環境や、世界のビーチ&リゾートの見聞を広める。 1983年 フジTV『オールナイトフジ』サーフィンコーナーレギュラー出演。 ウインドサーフィン世界大会『サムタイムワールドカップ』のイベントディレクター・コンテストD.J . 1985年 FMヨコハマ『MARUI 24CLUB』、ニッポン放送『ハートのイグニッション』レギュラー出演。 1986年 日本初のスノーボードプロジェクト『チーム・スノーボーディング』を組織し、新しいスノー スポーツウエアやグッズの開発。そして閉鎖的であったスキー場へのスノーボード解放の活動を開始。 1988年 相模湾の新しい海岸利用など『神奈川県なぎさシンポジウム』パネリストとして参加。 1989年 運輸省『ビーチ・マリン研究委員会』 委員就任 1990年 神奈川県主催新しい海の創生『サーフ '90』平塚コア会場担当プロデューサー。 カリフォルニアをモデルに、新しい海岸文化を創造する多目的利用海岸「ビーチスタジアム」を提案。 『サーフ '90』閉会後、平塚J.C.とともにサーフ'90平塚会場ボードウオーク施設の存続運動を展開。
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