プロサッカー指導者として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 15:37 UTC 版)
1999年、ヴェルディ川崎の「総監督」に就任。 李は日本サッカー協会のS級ライセンスを所得していなかった為、「松永英機や張外龍が監督を務め、実質的な指揮は李が執る」という極めて稀な体制だった。(現在においてもJFA公認S級コーチライセンスを所得していない) 林健太郎、米山篤志、山田卓也、小林慶行など桐蔭時代の教え子を中心としてチームを編成し、J1リーグ(1部)1stステージ2位、2ndステージ10位。 当時のトピックスとして下記3点が挙げられる。 ヴェルディ川崎は1998年限りで読売新聞社とよみうりランドが経営から撤退しており、経費削減を目的に三浦知良、柱谷哲二ら高額年俸の選手がチームを去るなど緊縮体制の打開策として李が起用された。 前年より始まった現役高校生をJリーグに出場させる強化指定選手(現在の特別指定選手)制度を利用して3選手を登録。帝京高等学校3年(義務教育終了4年目)の矢野隼人は、J1公式戦出場を果たした強化指定選手第1号となった。 第79回・天皇杯全日本サッカー選手権大会ではベスト4に進出。準決勝のサンフレッチェ広島戦に敗退後、主審を中傷する発言により、2000年のJ1の最初の数試合ベンチ入り禁止の処分を受けた。 2000年、J1リーグ1stステージ9位、2ndステージ10位。天皇杯4回戦敗退。シーズン終了後に退団。
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