ブロードウェイでの初期の成功
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 14:45 UTC 版)
「スティーヴン・ソンドハイム」の記事における「ブロードウェイでの初期の成功」の解説
バート・シーヴラヴはソンドハイムをあるパーティに招待した。ソンドハイムはシーヴラヴの前に到着したが、よく知っている人はいなかった。『Saturday Night 』のオーディションで見かけたことのあるアーサー・ローレンツを見つけ声を掛けた。ローレンツはレナード・バーンスタインと共に『ロミオとジュリエット』のミュージカル版を製作中で、作詞するはずであったベティ・コムデンとアドルフ・グリーンがハリウッドと契約中のためほかの作詞家を探していると語った。ローレンツはソンドハイムの大ファンではなかったが、『Saturday Night 』の歌詞を気に入っておりソンドハイムはバーンスタインのオーディションを受けることになった。翌日ソンドハイムはバーンスタインと面会して演奏し、バーンスタインはあとで連絡すると語った。ソンドハイムは作詞および作曲を望んでいた。ハマースタインと相談後、バーンスタインはソンドハイムに作詞を任せることにした。1957年、ジェローム・ロビンズ演出の『ウェスト・サイド物語』が開幕し、732回上演された。しかしソンドハイムは登場人物に歌詞が合っていない箇所があったり、詩的すぎたりで自分の作詞に不満があった。バーンスタインが『キャンディード』製作中、ソンドハイムは『ウエスト・サイド物語』の一部の曲の作曲も行ない、バーンスタインが作詞に携わることもあったが、『ウエスト・サイド物語』試験興行中にそれらのクレジットはなくなった。ソンドハイムはバーンスタインが彼を作詞家としてのみクレジットするようプロデューサーに指示したのだと主張した。印税として3%がバーンスタインに、1%がソンドハイムに入ることになっていた。バーンスタインは2%ずつとすることを提案したが、ソンドハイムはクレジットに名を残したいだけだとしてこれを断った。のちにソンドハイムは「誰か私を黙らせてくれれば印税がもっと入ったのに」と語った。 『ウエスト・サイド物語』開幕後、シーヴラヴはブロードウェイに「低俗なコメディ」が少なくなったと嘆き、プラウトゥスのローマ喜劇を基にしたミュージカルを検討した。ソンドハイムはこのアイデアに興味を持ち、友人のラリー・ゲルバートを共同脚本家にした。何度も草稿を重ねたが、ソンドハイムの次の作品のため中断した。 1959年、ローレンツとロビンズは、アーヴィング・バーリンとコール・ポーターに断られたジプシー・ローズ・リーの回顧録のミュージカル製作をソンドハイムに頼んだ。ソンドハイムは同意し、無名の作曲家および作詞家による『Happy Hunting 』を終えたばかりのエセル・マーマンがママ・ローズ役に配役された。ソンドハイムは作詞だけでなく作曲も望んだが、再度無名の作曲家の作品となることを嫌がったマーマンはこれを拒否し、ジューリー・スタインが作曲することを要求した。ソンドハイムは作詞家として定着することを心配し、ハマースタインに助言を求めた。ハマースタインはスター俳優と作品を作り上げることは良い経験になると語った。ソンドハイムは作詞家として、1959年5月21日、『ジプシー(英語版)』が開幕し、702回上演された。
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