フランス占領下のドイツとその解放
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:19 UTC 版)
「反ユダヤ主義」の記事における「フランス占領下のドイツとその解放」の解説
1806年にプロイセンが、そして1807年にプロイセンの同盟国ロシアがフランスに敗北した。ティルジットの和約によってプロイセンは、エルベ川以西の領土とポーランドを失い、国の面積は半分以下となり、巨額の賠償金を課せられたうえに、15万のフランス軍が進駐した。プロイセン旧領の北西諸邦にはナポレオンの弟ジェロームを王とするヴェストファーレン王国が置かれた。 1807年にプロイセンがフランスに敗北するとオーストリアは独力で模索することとなり、1808年には一般兵役義務制度が導入され、正規軍とならんで民兵制が施行された。オーストリア外相シュターディオン伯爵は国内で愛国主義キャンペーンを実施して、バークの『フランス革命についての省察』を翻訳していた政論家ゲンツや、フリードリヒ・シュレーゲルもこのキャンペーンに協力した。しかし1809年、オーストリアはフランスに敗れ、シェーンブルンの和約でオーストリアはザルツブルク、ガリツィア、チロルを放棄し、巨額の賠償金を課せられた。 ナポレオン占領地域では、反フランス的報道は厳しく弾圧され、バーデンでは1810年に新聞発行が停止され、プロイセンでは検閲局が作られ、ラインラント新聞はフランス語との2言語表記が義務づけられた。ニュルンベルクの書店主パルムは『奈落の底にあるドイツ』 というビラを配ったために1806年に銃殺された。ナポレオンにライン左岸を奪われ、神聖ローマ帝国が解体し、40のドイツ領邦が支配され、新聞や出版の統制が進むと、ドイツ人は自分たちの弱さを自覚し、失望が広がるとともに、反ナポレオン運動はドイツ国家とドイツ民族を復古させるドイツ国民運動となっていった。 他方、戦勝国のフランスでは、1807年にユダヤ陰謀説が取沙汰されるようになり、その後、フリーメイソン陰謀説と交代して取沙汰されていき、これが19世紀以降の反ユダヤ主義の潮流と合流していった。 プロイセンでは1810年から宰相ハルデンベルク指導のもと、改革が進められた。ハルデンベルクは「リガ覚書」で「不死鳥よ、灰の中からよみがえれ」と書き、君主政治における民主的原則の実現が目指された。プロイセン改革では、フランス革命の刺激を積極的に受け止められ、自由と平等が主張されたが「フランス革命の血まみれの怪物どもがその犯罪の隠れみのした『自由と平等』」ではなく、君主国の賢明な方法によると説かれた。
※この「フランス占領下のドイツとその解放」の解説は、「反ユダヤ主義」の解説の一部です。
「フランス占領下のドイツとその解放」を含む「反ユダヤ主義」の記事については、「反ユダヤ主義」の概要を参照ください。
- フランス占領下のドイツとその解放のページへのリンク