フランス出兵と「乱暴な求愛」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 10:52 UTC 版)
「ヘンリー8世 (イングランド王)」の記事における「フランス出兵と「乱暴な求愛」」の解説
キャサリン・オブ・アラゴンとアン・ブーリンが共に亡くなったため、ヘンリーとカール5世の関係は改善し、ヘンリーはフランスへの出兵を考えるようになった。だがその前にカトリック勢力が強く、フランスと「古い同盟」を結ぶスコットランドの脅威を除くため、結婚による同君連合を考え、甥にあたるスコットランド王ジェームズ5世の娘で世継ぎのメアリー王女と、自らの息子のエドワード王子とを結婚させようとした。戦争を伴ったこの一連の行動は「乱暴な求愛(英語版)」と呼ばれた。1542年、スコットランドはソルウェイ・モスの戦いで敗れ、直後にジェームズ5世は急死し、スコットランドはグリニッジ条約をイングランドと結んで結婚に合意した。 1544年に第五次イタリア戦争でカール5世とヘンリーは連合してフランスに攻め込んだ。モントルイユとブローニュ=シュル=メールを同時に攻め、ヘンリーは後者の包囲戦の指揮をとり陥落させた。だが、カール5世の求めに反してパリには進軍しなかった。カール5世の軍は勝利を収められず、カール5世は一方的にフランスと講和した。ヘンリーはフランスで孤立したが、英仏両国とも戦費に窮乏して講和した。ブローニュは後に補償金と引き換えにフランスに返却された。 スコットランドがグリニッジ条約を破棄したため、1544年にヘンリーはスコットランドに攻め込み、エディンバラを焼き討ちした。
※この「フランス出兵と「乱暴な求愛」」の解説は、「ヘンリー8世 (イングランド王)」の解説の一部です。
「フランス出兵と「乱暴な求愛」」を含む「ヘンリー8世 (イングランド王)」の記事については、「ヘンリー8世 (イングランド王)」の概要を参照ください。
- フランス出兵と「乱暴な求愛」のページへのリンク