フランス占領軍総司令官 (1815年-1818年)
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「アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)」の記事における「フランス占領軍総司令官 (1815年-1818年)」の解説
ナポレオンはパリまで逃げ戻ったが、ナポレオンを支持する者はもうほとんどなく、フランス議会から退位を要求された。同盟軍がパリに接近してくるに及んで、ナポレオンはイギリス軍に投降した。イギリス政府の決定でナポレオンはセント・ヘレナ島に流刑となった。ルイ18世がパリに帰還し、復古王政が再開された。また第二次パリ条約が締結されてフランスは莫大な賠償金を課され、フランス領土は1790年時の領土まで削減されることになった。 フランス占領軍の総司令官に就任したウェリントン公爵は本国の外相カスルリー子爵と協力して、復讐に燃えるロシア、プロイセン、オーストリアの主張を抑えて寛大な占領統治を行った。ロシアが求めるイエナ橋の爆破も退けた。15万人もの占領軍は多すぎるとして縮小することも提案している。ロシア軍、プロイセン軍、オーストリア軍はフランス国民から激しい略奪を行ったが、イギリス軍はウェリントン公爵の指揮下に規律を保ち、略奪を行わなかった。 また「変節者」「裏切り者」であってもタレーランやフーシェは閣僚の地位に留まらせるようルイ18世の説得にあたった。一方でルイ18世に復讐で逮捕されたミシェル・ネイ元帥の助命嘆願はしなかった。その結果ネイは銃殺刑に処された 1818年秋アーヘン会議が開催され、ウェリントン公爵は外相カスルリー子爵とともにイギリス代表として出席した。この会議でウェリントン公爵はベアリングス銀行からフランス政府への融資を取り付け、フランス政府の賠償金支払いの当てを作り、その結果会議は11月末までにフランス占領軍を撤収させることを決議した。 こうしてウェリントン公爵も1818年12月にはイギリスへ帰国することとなった。
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