フランスによるイオニア諸島の占領政策
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「フランス領イオニア諸島」の記事における「フランスによるイオニア諸島の占領政策」の解説
フランス軍はイオニア諸島を占領すると各島に住む正教徒、カトリック教徒、ユダヤ教徒の代表者を集めて臨時自治政府を設立させたが、これにはブルジョアジーだけではなく、農民、手工業者らの参加も認められた。 そのため、1797年7月、ケルキラ島ではフランス軍歓迎の祭りが開かれ、町の広場には「自由の樹」が植えられ人々はその樹の周りを踊りながら「ラ・マルセイエーズ」を謳った。しかし、島内の反ユダヤ主義者らは深夜に「自由の樹」を切り倒すとフランス軍に対してユダヤ教徒代表を加えた事を抗議した。 これに対してフランス軍は事態収拾のためにこれらの騒動の首謀者を逮捕しようとしたが、ケルキラ島の守護聖人「スピリドン」教会の宝をフランス軍が略奪しようとしているという噂が流れたため、民衆らが蜂起する事態に至った。このため、ケルキラ島の島民らは占領初期よりフランス支配にたいして不信を抱いており、時には敵意を隠さなかった。一方で「愛国社会教育協会」が設立されて啓蒙主義理念の伝播を行なうなど、フランスびいきの教養人らが居り、ナランティス兄弟、ロベルドス伯、ブルガリス、ブルバキス一族などが親仏派と目されていた。 ケファロニア島のアルゴストリ市では民主グループがジャコバン的急進派グループ「護憲教会」を設立させていた。この団体はキリスト教の廃止、偶像の崇拝、オリンピックの復活など古代ギリシャへの復帰を目指す社会体制の変革について議論が行なわれたが、これは現実離れしたものであった。 イオニア諸島の対岸にはカンポ・フォルミオ条約でヴェネツィア領からフランス領へ移動した地域が存在したが、これはエピルスの実力者アリー・パシャが狙いを定めていた。また、ナポレオンもイオニア諸島を足がかりに東へ向かう事を考えていた。 そのため、アリー・パシャはフランス軍の援助を利用してブトリントーを占領するとアルタ湾入り口のプレヴェザ、ヴォニツァの支配権をフランスに要求したが、フランスはこれを拒否した。これを受けてアリー・パシャはフランス軍を攻撃してニコポリスで撃破、ブレヴェザ、ヴォニツァを占領した。 この戦いではイオニア諸島のギリシャ人らはフランス軍に協力したが、対岸のギリシャ人らの多くがアリー・パシャの支援を行なったために、ギリシャ人らによるギリシャ独立国家実現が困難な道を選ぶであろうことが暗示された。
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