フィデル・ラモス政権(1992年-1998年)
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詳細は「フィデル・ラモス大統領時代(英語版)」を参照 1992年の選挙でアキノに支持されたフィデル・ラモス国防大臣(Lakas-NUCD)がミリアム・デフェンソル・サンティアゴ(英語版)(Mds)やエドゥアルド・コンフアンコ・ジュニア(英語版)元老院議員(NPC)、ラモン・ミトラ・ジュニア(英語版)代議院議長(LDP)、元ファーストレディーイメルダ・マルコス(KBL)、ホビト・サロンガ(英語版)元老院長官(LP)、サルバドール・ラウレル(英語版)副大統領(NP)を抑えて得票の丁度23.6%で当選した。 政権初期にラモスは最優先課題として「国民和解」を宣言した。共産党を合法化し、共産党の反乱者やイスラーム教徒の分離派、反乱兵との対話に向けた基礎を作る弁護士マヌエル・C・エレラ(英語版)が議長を務める国民統合委員会(NUC)を創設した。1994年6月、ラモスは反乱を起こした全ての団体や反乱部隊と戦う際に犯罪を行ったとされるフィリピン軍の軍人や警察職員を対象とする総合的な条件での恩赦を与える法律に署名した。1995年10月、政府は反乱を終わりにする合意に署名した。 中国との膠着状態がフィリピンがカラヤーン諸島と主張する係争中の南沙諸島のミスチーフリーフに中国軍が建造物を建てた1995年に起きた。 ラモスは石油自由化法を可決するような自由経済政策で酷く批判され、従ってガソリン製品の価格が上昇した。ラモスはラモスが数百万ペソに上るキックバックを受け取ったとされるフィリピン百周年展覧会とPEA-AMARI土地合意で賄賂を受け取ったとされる件でも批判された。 ヌル・ミスアリが指揮するミンダナオ島の本拠地の独立したバンサモロの為に戦う主要なイスラーム分離派のモロ民族解放戦線(MNLF)との和平合意が1996年に調印され、24年に及ぶ騒乱に終止符を打った。しかしサラマット・ハシームが指揮するMNLFから分派した団体モロ・イスラム解放戦線(MILF)はイスラーム国の為にイスラーム教徒の武装闘争を続けた。 1998年の選挙は、1100万票に迫る票を得て圧倒的な大衆の支持を得て元映画俳優で副大統領ジョセフ・エストラーダ(PMP-LAMMP)が当選した。他の10人の候補者には440万票を得た最も身近な対抗馬で政権候補であるホセ・デベネシア代議院議長(Lakas-NUCD-UMDP)やラウル・ロコ(英語版)元老院議員(Aksyon Demokratiko)、元セブ州知事リト・オスメニャ(英語版)(PROMDI)、マニラ市長アルフレド・リム(英語版)(LP)がいた。
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