ビル・ハケイム、自由フランス軍の砦
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「ビル・ハケイムの戦い」の記事における「ビル・ハケイム、自由フランス軍の砦」の解説
南側の戦線における有利な地点であるビル・ハケイムは自由フランス第1歩兵旅団(司令官マリー=ピエール・ケーニグ)が防衛を行うこととなった。この部隊は異質な部隊であり、ドイツによって占領されているフランスから逃亡した各種の異なるグループの寄せ集めで約3,700名が所属、さらに6個大隊に割り振られていた。 2個外人大隊-主にスペインの共和主義者で編成された第13外人准旅団の第2、第3大隊で、ディミトリ・アミラクヴァリ(フランス語版)中佐の下、すでにゲリラ戦の経験があった。 2個植民地大隊-太平洋のフランス植民地のロベール・ド・ルー(フランス語版)大佐率いる准旅団と中央アフリカの植民地部隊より派遣されていた。 第1海軍陸戦大隊(1er bataillon de fusiliers-marins: DCA, 大隊長ユベール・アミヨ・ダンヴィユ(フランス語版))で第43砲兵隊(第11軽対空砲連隊(英語版))より2個騎兵隊で補強されていた。 海兵隊(隊長ジャック・サヴェ(フランス語版)) さらに、第22北アフリカ中隊(フランス語版)(隊長ピエール・ルケンヌ(Pierre Lequesne)大尉)や第17工兵中隊[要出典](隊長ジャン・デメゾン(Jean Desmaisons)大尉)なども所属しており、それらは第1砲兵連隊(連隊長ジャン=クロード・ローラン=シャンプロゼ(フランス語版)大佐)の支援を受けていた。 使用できる器材は多種多様であった。ユニバーサル・キャリア63両、トラック数台、榴弾砲2門がイギリス軍より支給されたが、砲門のほとんどがフランス製で、中東のフランス植民地、レバントから送られたものであった。M1897 75mm野砲54門(内、30門が対戦車砲として使用された)、47mm砲14門、25mm砲18門、イギリスより支給されたボーイズ対戦車ライフル86丁及び、ボフォース 40mm機関砲18門が主な砲門であった。さらに大部分の歩兵用重火器がフランス製であり、81cm、もしくは90cm迫撃砲44門、ホチキス製機関銃76丁、対空機関銃96丁、そしてFM mle1924/29軽機関銃270丁が装備されていた。そして、ビル・ハケイムには食料10日分と75mm砲弾20,000発が用意された。 ベルナール・サン=ティリエはビル・ハケイムについてこう語っている。「乾燥した砂漠のど真ん中にある普通の十字路、砂漠の風で露出した岩の場所、ビ=ラケムは遥か彼方から見つけることができ、自然の要害も無く、戦場には不向きな場所だ。そこは古い時代の駱駝騎兵でも包囲できるぐらい南北にうねっており、186地点周辺は過去に水槽であった2つの高台であった。うねった大地の東側は北向く大きなすり鉢上の地形であった。ケーニグ将軍は支援地点を3区画にわけ、それぞれ1個大隊に防衛を担当させた。第13外人准旅団の第2大隊は東方面を防衛しており、第3大隊は増援として75mm、25mmの自動車化砲(外部の偵察が可能であった)といくつかの装甲車両(ジョック・コラム(英語版))で組織されていた。そして、この比較的直線で形成された防衛線に厚みを加えるために、防衛線の前面に数は少ないながら広範囲に地雷原が敷設された。これら地雷原の北、及び北東ではお互いが連結した防衛陣地が築かれた。さらにTrigh-el-Abd近郊まで厚い地雷原が続いていた。コードネームVゾーンと呼ばれた三角地帯は自由フランス旅団から送られた指揮官マルセル・ヴァンサン(Marcel Georges Vincent)の自動車化パトロール隊が監視を行った。」
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