パーンドゥランガ王朝の終焉と現在の王祖祭祀
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「チャンパ王国」の記事における「パーンドゥランガ王朝の終焉と現在の王祖祭祀」の解説
1695年に順城鎮のチャンパ王を保護下に置いた南ベトナムの広南阮氏では、1760年代に政治が乱れ、1773年にビンディン省タイソン県(平定省西山県)でバナーなど山地民をもとりこんだ西山阮氏(西山朝、広南阮氏は偽西と呼ぶ)が蜂起した。1774年、広南阮氏は南下してきた鄭氏と北上してきた西山阮氏に挟撃されて都のフエを失い、いったん滅亡した。1777年以後、生き残りの王子阮福暎(後の嘉隆帝)が広南阮氏再興のための兵を募り、1794年の嘉定克復(サイゴン回復)から1802年の昇隆征服(ハノイ征服)まで、広南阮氏と西山阮氏の内戦が続いた(偽西戦争)。ベトナム帝国・大南阮朝初期、順城鎮のチャンパ王ポーチョンチョン(阮文振)は偽西戦争において武将として大きく貢献し、国姓(阮朝の姓)であるグエン(阮)が下賜され、嘉隆帝の信頼と厚遇を得た。ポーチョンチョンの時代、順城鎮のチャンパ王は中部高原南方の山岳民族をことごとく勢力下におき、パーンドゥランガと中部高原のあいだをチャムの隊商が往来し、威信財交易によってラグライ族、コホー族、マー族などの労働力を得て、「チャンパ王家の百畝田」と呼ばれる大規模農場が発展した。しかし、次の明命帝は少数民族であれベト人であれ世襲地方官による自治を廃し、順城鎮は版籍奉還の形で解消され、フエとファンリに占城国王廟が建設されて、王国消滅後のチャンパの王祖祭祀が保証された(パーンドゥランガ王朝の終焉)。退位した最後のチャンパ王ポーフォクトゥー(阮文承)は黎文傀(レー・ヴァン・コイ)など世襲地方官による南部大反乱に連座した廉で極刑(凌遅)に処され、自治回復を求めるチャム貴族と山地民の蜂起(羅奔王の乱)も1835年までに鎮圧された。
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