パーンドゥランガ王朝の終焉と現在の王祖祭祀とは? わかりやすく解説

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パーンドゥランガ王朝の終焉と現在の王祖祭祀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 06:51 UTC 版)

チャンパ王国」の記事における「パーンドゥランガ王朝の終焉と現在の王祖祭祀」の解説

1695年順城鎮のチャンパ王保護下に置いた南ベトナム広南阮氏では、1760年代政治乱れ1773年ビンディン省タイソン県平定省西山県)でバナーなど山地民をもとりこんだ西山阮氏西山朝広南阮氏は偽西と呼ぶ)が蜂起した1774年広南阮氏南下してきた鄭氏と北上してきた西山阮氏挟撃されて都のフエ失い、いったん滅亡した1777年以後生き残り王子阮福暎(後の嘉隆帝)が広南阮氏再興のための兵を募り1794年嘉定克復サイゴン回復)から1802年の昇隆征服ハノイ征服)まで、広南阮氏西山阮氏内戦続いた(偽西戦争)。ベトナム帝国大南阮朝初期順城鎮のチャンパ王ポーチョンチョン(阮文振)は偽西戦争において武将として大きく貢献し国姓阮朝の姓)であるグエン(阮)が下賜され嘉隆帝信頼厚遇得た。ポーチョンチョンの時代順城鎮のチャンパ王中部高原南方山岳民族ことごとく勢力下におき、パーンドゥランガと中部高原のあいだをチャム隊商往来し威信財交易によってラグライ族、コホー族、マー族などの労働力得て、「チャンパ王家の百畝田」と呼ばれる大規模農場発展した。しかし、次の明命帝少数民族であれベト人であれ世襲地方官による自治廃し順城鎮は版籍奉還の形で解消されフエとファンリに占城国王廟が建設されて、王国消滅後チャンパの王祖祭祀保証された(パーンドゥランガ王朝の終焉)。退位した最後チャンパ王ポーフォクトゥー(阮文承)は黎文傀(レー・ヴァン・コイ)など世襲地方官による南部反乱連座した廉で極刑(凌遅)に処され自治回復求めチャム貴族山地民の蜂起(羅奔王の乱)も1835年までに鎮圧された。

※この「パーンドゥランガ王朝の終焉と現在の王祖祭祀」の解説は、「チャンパ王国」の解説の一部です。
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