パーンドゥランガ王朝の危機と再興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 06:51 UTC 版)
「チャンパ王国」の記事における「パーンドゥランガ王朝の危機と再興」の解説
鄭阮紛争期、南ベトナムの広南阮氏は、鄭氏との内戦に集中するため諸国との交流・善隣に努め、長崎の日本人豪商荒木宗太郎やチャンパ王、カンボジア王と婚姻関係を結んだ。阮氏の王女、玉科公主を王妃に迎えたポーロメー王 Po Rome の時代、チャンパとシャム、広南、中国、日本のあいだを清国船が往来し、威信財交易によってラグライ族などの労働力を得て、最後のチャンパ塔であるポーロメーの塔(厚生古塔)が建造された。しかし、1673年の鄭阮和平以降、阮氏は善隣政策を廃し、チャンパ、カンボジアへの攻勢を強めた。1693年、広南阮氏明王の武将阮有鏡がパーンドゥランガを攻略して順城鎮と改称した。順城鎮は広南に併合されていったん自治を失ったが、間もなくチャム人貴族のオクニャ・ダット(屋牙撻)が清国人(日本の『華夷変態』の表記では羅宇人、チャム語 Orang Laow)である阿班の加勢を得てパーンドゥランガ駐留阮軍を各地で撃破し、包囲した。明王はカンボジア駐留阮軍を呼び戻してチャム軍を打ち破るとともに軍事圧力を加えつつ講和を図り、阿班の排除を条件として1694年末にチャム王家のポーシャクティライ・ダ・パティー(継婆子)によるパーンドゥランガ朝の王家再興を認めた(順城鎮のチャンパ王)。占領下の抵抗戦の勝利と王家再興の過程は、『大南寔録前編』や日本の『華夷変態』に詳述されている。また、明王は1712年に順城鎭との間に議定五条を結び、パンラン道(潘郎道、いまニントゥアン省ファンラン)、クロン道(龍郷道、いまビントゥアン省トゥイフォン県リエンフオン市鎮)、パリク道(潘里道、いまビントゥアン省バクビン県)、パジャイ道(庯諧道、いまハムトゥアンバク県、ハムトゥアンナム県、ファンティエト市、ラギ市(ラジ市)、ハムタン県)の四つの道における順城鎮のチャンパ王の広範な自治権を認めた。
※この「パーンドゥランガ王朝の危機と再興」の解説は、「チャンパ王国」の解説の一部です。
「パーンドゥランガ王朝の危機と再興」を含む「チャンパ王国」の記事については、「チャンパ王国」の概要を参照ください。
- パーンドゥランガ王朝の危機と再興のページへのリンク