パペット・アニメーション時代
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「アレクサンドル・プトゥシコ」の記事における「パペット・アニメーション時代」の解説
1927年、モスクワのモスフィルム撮影所に入社した時から、プトゥシコの映画人生はスタートした。最初は他の監督の短編ストップモーション・アニメーション映画の人形(パペット)を作っていた。しかし、ほどなく監督になり、Bratishkinという名前のキャラクターを主人公としたサイレントのパペット・アニメーション映画シリーズを撮りだした。そのシリーズは1928年から1932年まで続き、プトゥシコは監督と美術を担当した。その間、プトゥシコはさまざまなアニメーション技術の実験(たとえば、同一フレームでパペットと実写を合成させること)を繰り返した。プトゥシコの特撮技術は有名になった。しかし、それらの作品は現在では残っていない。 1933年、プトゥシコは長年にわたって集めてきたスタッフとともに、最初の長編映画『新ガリバー』(ru:Новый Гулливер (фильм))の撮影を開始した。脚本・監督はプトゥシコで、長編アニメーション映画としてばかりでなく、ストップモーション・アニメーションと実写を合成した映画としても、世界最初期の映画の1本である(最初というのであれば、オブライエンの『ロスト・ワールド』は1925年、『キング・コング』は1933年だが、『新ガリバー』はより技術的に手が込んでいて、しかも3000体に及ぶパペットを使っている)。原作はもちろん『ガリヴァー旅行記』だが、共産主義の視点から語られている。少年が夢の中でガリバーになって、リリパット国に上陸し、資本主義の迫害を受け、搾取されるというストーリーである。『新ガリバー』は1935年に公開された。ミラノ国際映画祭では特別賞も受賞した。 『新ガリバー』の成功で、プトゥシコはモスフィルムに、後にthe Ptushko Collectiveと呼ばれる、ストップモーション・アニメーション製作スタジオを持つことが許された。このスタジオで、1936年から1938年にかけて40本もの短編アニメーション映画が作られた。プトゥシコはほとんどの作品の監修はつとめたが、自分で監督をすることはあまりなかった。映画の内容は、後にプトゥシコが大きな成功を得ることになる、ロシアの民話・おとぎ話に基づいたものだった。 1938年、プトゥシコは長編第2作『黄金の鍵』(ru:Золотой ключик (фильм))の製作に着手した。『新ガリバー』同様、ストップモーション・アニメーションと実写を合成させた映画である。『ピノッキオの冒険』の翻案で、ディズニーが『ピノキオ』を公開する2年前のことだった。『黄金の鍵』はソビエト国内では大成功を収めたが、国外への配給はされなかった。成功であったにもかかわらず、『黄金の鍵』はプトゥシンコが最後に手掛けたアニメーション映画になった。 第二次大戦中、モスクワのほとんどの映画人たちはカザフスタンのアルマトイに疎開させられた。もちろんプトゥシコもその中に含まれた。プトゥシコは特撮の仕事を続けたが、戦争が終わるまで監督はしなかった。
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