パフラヴィー朝期(1925~1979年)
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「イランとロシアの関係」の記事における「パフラヴィー朝期(1925~1979年)」の解説
イランのいたる所に現れるロシア帝国のプレゼンスに対する広範な抗議活動における1つの結果が、ギーラーン護憲運動(ペルシア語版、英語版)である。ミールザー・クーチェク・ハーン(ペルシア語版、英語版)の指導する反乱は最終的対立に至ったが、1917年のロシア10月革命で中断することになる。 しかしロシアのイランに対する関与は継続。1920年に設立された短命のギーラーン共和国、つづくマハーバード共和国のような試みがあった。マハーバード共和国はソヴィエト・ロシアのイランにおける共産主義共和国設立の最後の事例となる。 1941年、第二次世界大戦が勃発すると、中立を求めるイランの意向を無視して、ソヴィエト・ロシアおよび英国は侵攻を開始した。 1945年7月6日、ソ連のロシア共産党中央委員会はソヴィエト領(北部)アゼルバイジャン現地のソヴィエト軍司令官に電報を発し、次のように指令していることが明らかになっている。 「イラン国家内の広範な勢力を結集し民族自治のアゼルバイジャン地域を形成する予備的作業を開始せよ。また同時にギーラーン、マーザンダラーン、ゴルガーン、ホラーサーンにおいても分離主義運動を立ち上げよ」 この指令に基づいてイラン進駐が行われたが、第二次世界大戦の終結により、イランをとりまく政治的状況におけるアメリカ合衆国が優位にたつ時期がはじまった。冷戦の発生とともに、アメリカはイランの反共ブロックへの引き込みを急いだ。これにより年来の長期にわたるイランに対するロシアの影響力は終焉をみたのである。
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