パトリシア・ドッカー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/26 04:28 UTC 版)
「バイブル・ジョン」の記事における「パトリシア・ドッカー」の解説
1968年2月23日、グラスゴー南部のバトルフィールド(英語版)にある職場へ通勤中の男性が、貸し車庫の出入り口で25歳の看護助手パトリシア・ドッカー (英: Patricia Docker) の裸の遺体を発見した。遺体が発見された場所はラングサイド(英語版)にあるパトリシアの自宅からほんの数メートルの距離だった。遺体には特に顔や頭部に広範囲の鈍的外傷(英語版)が認められた。また、ベルトと思われる硬い紐で絞殺されていた。パトリシアのハンドバッグや腕時計、衣服は犯行現場には残っておらず、衣服はその後も発見されなかった。しかし、ハンドバッグは後に水中探査機によってカート川(英語版)から回収され、腕時計は殺害現場付近の水溜りから回収された。 この地域での広範囲の戸別訪問調査の結果、ある女性が前の晩に"Leave me alone!" (日: 放して!) と叫ぶ女性の声を聞いたと証言した。しかし、犯行現場では確実な証拠はほとんど見つからなかった。それでもなお、犯行現場から遺体を回収した救急隊員により、被害者が近くのレンフルーシャーのミアーンスカーク病院で働いていた看護師であると捜査官に伝えられた。それにより、翌日になって被害者の父親が遺体の身元を正式に確認した。 パトリシアは既婚者であり子供もいたが、当時は夫と疎遠になっており、自分の両親と一緒に暮らしていた。殺害される前夜、パトリシアは両親に向けて、近所のホープ・ストリートにあるマジェスティック・ボールルームで踊りに行くつもりであると伝えていた。しかし、理由は不明だが、結局バローランド・ボールルームで夜を過ごすことを選んだ。バローランド・ボールルームでは毎週木曜日に25歳以上向けの催しが開かれており、それに参加するためだった可能性がある。パトリシアはその日の夜に帰宅しなかったが、両親は娘は友人の家で過ごしていると考えていた。 グラスゴー大学医学部のギルバート・フォーブス (英: Gilbert Forbes) 医師が行った検死では、パトリシアの死因は絞扼であり、性的暴行の明確な証拠を示していないことが確認された。さらに、発見時の遺体の死後硬直の進行度から、パトリシアはバローランド・ボールルームを出た直後に殺害された可能性があることが示唆された。警察は、殺人犯はパトリシアに掴みかかり、顔を繰り返し殴ったり蹴ったりした可能性があるという結論を下した。パトリシアが"Leave me alone!"と2度叫んだのはそのときのようである。その際、殺人犯はパトリシアを絞殺する前に強姦しようとした。靴以外は裸にしてカーマイケルにある貸し車庫の出入り口の近くに遺体を放置した。
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