バンド結成から活動初期まで(1981年 - 1989年)
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バンドを結成する前から、それぞれが独自に音楽家として活動していた。1981年6月頃、北千住のライブハウス「甚六屋」で知久と石川が知り合った(知久は当時高校生)。1982年12月に知久が両国のライブハウス「両国フォークロアセンター」で柳原と出会った。これらの相次ぐメンバーの出会いが、たま結成の切っ掛けとなった。 1984年11月11日、大久保のライブハウス「オフオフ新宿スタジオ・ジャムⅡ」での「地下生活者の夜」というライブイベントで知久、石川、柳原が「かき揚げ丼」という仮バンド名でライブを行い、これをきっかけに「たま」を結成した。石川によると、「たま」というバンド名に決定した背景には、ソロの音楽家の集まりから発展したバンドであり、楽曲の作者によって音楽性が大きく異なることから、バンド名から音楽性が類推されることのないバンド名にしたいという意図があったという。また、略されたり間違えて覚えられたりしないような短い名前にしたいという理由もあった。なお、「かき揚げ丼」のライブは、たまの1stカセットテープ『またたび』として販売された。「たま」というバンド名で初めてライブを行ったのは、1984年12月5日の「オフオフ新宿スタジオ・ジャムII」で開かれたコンサート「On Christmas GIG '84 BYE BYE」でのことだった。また、1986年6月にメンバーの憧れのライブハウスである吉祥寺の「曼荼羅」で「3丁目ジャグ・バンド」の前座として初出演し、それ以来レギュラー出演するようになった。 しかし、1986年8月のツアーの後、フランス料理店に就職していた柳原が真剣に解散を提案した。それでも、知久がバンドの継続を熱心に主張し、存続の条件である音楽性の充実のためにベーシストを募集した。そして同年11月、当時ソロで音楽活動をしており、たまのメンバーとも面識があった滝本がただ一人応募してきて加入し、4人編成になった。なお、滝本にはそれまでベースの演奏経験がなかったが、「既にたまは完成されているバンドだった。誰かが入ってこのバランスが崩れるくらいなら、自分が入ろうと思った」という理由で応募した。この4人編成での初のライブは同年12月2日に開かれた「曼荼羅」でのコンサートでのことだった。ただし、このライブでは滝本は一部でしか演奏に参加しなかった。滝本が本格的に参加した初のライブは1987年1月29日の「曼荼羅」でのコンサートのことで、このときの録音をインディーズレーベル「ナゴムレコード」に送付した。たまがデモテープを送ったのはこれが初めてのことだった。それから数ヵ月後の11月、オムニバスアルバムへの参加を依頼され、それ以降、ナゴムレコード関係の活動も増加していった。 4人ともソロ活動をしていたため、それぞれ自分がボーカルをとる曲は自分で作詞・作曲をし、全員で編曲を行うスタイルをとった。しかし、初期のたまの代表曲と見なされているのは、知久もしくは柳原のつくった曲である。
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