ハンブルクでの宗教改革と学院の創立とは? わかりやすく解説

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ハンブルクでの宗教改革と学院の創立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/22 20:47 UTC 版)

ヨハネウム学院」の記事における「ハンブルクでの宗教改革と学院の創立」の解説

ドイツ北部自由都市ハンブルクには、教区教会4つそのほかフランチェスコ会シトー会ドミニコ会などの教会修道院があり、それらの聖職者たちは市参事会としての政治的権力をはじめ、免税裁判など世俗的な特権有していた。宗教改革が始まると、各教区の中で分裂対立始まり市民旧教聖職者たちの追放求めて衝突するようになった。この混乱落ち着くまでには数年要し最終的にブーゲンハーゲン招致しハンブルク教会学校規定作成任せることになったブーゲンハーゲンは、ハンブルク聖堂聖ニコライ教会など教区教会附属していたラテン語学校閉鎖、これらを一元化して、聖ヨハネス教会修道院学校とすることにした。これがヨハネウム学院始まりである。初代校長にはヴィッテンベルクのテオフィルス・ヘルメラートゥス(Theophilus Hermelates)が招聘された。開校日は1529年5月24日で、これはブーゲンハーゲン創立したギムナジウムとしては前年ブラウンシュヴァイク次いで2番めのものだった創立当時授業料は、上流階級の子弟は年に銀貨8、普通の子弟はその半額貧困層の子弟は免除となっていた。教師は7名から成り、Magister(マジスター修士)であり豊かな学識をもつ校長(Rektor)、副校長(Subrektor)1名、平教員Pedagogy)4名、それに合唱指揮者(Kantor)がいた。学院は5学級から構成されていた。 ところで、「北ドイツ福音伝道師」と称されブーゲンハーゲンは必ずしも「聖人」でなかったことを示す逸話ハンブルク残されている。学校設立依頼されブーゲンハーゲンは、妻子従者引き連れて自由都市ハンブルクにやってきて8ヶ月わたって滞在したのだが、その間ハンブルク市による接待などを受けて豪遊し立ち去るときにも法外な謝礼をとった。ブーゲンハーゲン受け取った額は、ギムナジウム校長2年半ぶんの収入相当する金貨100枚、さらにブーゲンハーゲンの妻までも金貨20得ている。一行ハンブルク次にリューベックギムナジウム設立しに行くのだが、そこでも純金製の酒杯受け取っている。ブーゲンハーゲン従者が「使徒伝道謝礼受け取ったでしょうか」と尋ねると、ブーゲンハーゲンは「そうだ」と答えたという。

※この「ハンブルクでの宗教改革と学院の創立」の解説は、「ヨハネウム学院」の解説の一部です。
「ハンブルクでの宗教改革と学院の創立」を含む「ヨハネウム学院」の記事については、「ヨハネウム学院」の概要を参照ください。

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