ハンブルクでの宗教改革と学院の創立
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「ヨハネウム学院」の記事における「ハンブルクでの宗教改革と学院の創立」の解説
ドイツ北部の自由都市ハンブルクには、教区教会が4つ、そのほかフランチェスコ会、シトー会、ドミニコ会などの教会や修道院があり、それらの聖職者たちは市参事会員としての政治的権力をはじめ、免税や裁判などの世俗的な特権を有していた。宗教改革が始まると、各教区の中で分裂や対立が始まり、市民は旧教の聖職者たちの追放を求めて衝突するようになった。この混乱が落ち着くまでには数年を要し、最終的にブーゲンハーゲンを招致してハンブルクの教会と学校の規定の作成を任せることになった。 ブーゲンハーゲンは、ハンブルク聖堂と聖ニコライ教会など教区教会に附属していたラテン語学校を閉鎖、これらを一元化して、聖ヨハネス教会の修道院を学校とすることにした。これがヨハネウム学院の始まりである。初代の校長にはヴィッテンベルクのテオフィルス・ヘルメラートゥス(Theophilus Hermelates)が招聘された。開校日は1529年5月24日で、これはブーゲンハーゲンが創立したギムナジウムとしては前年のブラウンシュヴァイクに次いで2番めのものだった。 創立当時の授業料は、上流階級の子弟は年に銀貨8枚、普通の子弟はその半額、貧困層の子弟は免除となっていた。教師は7名から成り、Magister(マジスター、修士)であり豊かな学識をもつ校長(Rektor)、副校長(Subrektor)1名、平教員(Pedagogy)4名、それに合唱指揮者(Kantor)がいた。学院は5学級から構成されていた。 ところで、「北ドイツの福音伝道師」と称されたブーゲンハーゲンは必ずしも「聖人」でなかったことを示す逸話がハンブルクに残されている。学校設立を依頼されたブーゲンハーゲンは、妻子や従者を引き連れて自由都市ハンブルクにやってきて8ヶ月にわたって滞在したのだが、その間、ハンブルク市による接待などを受けて豪遊し、立ち去るときにも法外な謝礼をとった。ブーゲンハーゲンが受け取った額は、ギムナジウムの校長の2年半ぶんの収入に相当する金貨100枚、さらにブーゲンハーゲンの妻までも金貨20枚を得ている。一行はハンブルクの次にリューベックへギムナジウムを設立しに行くのだが、そこでも純金製の酒杯や杖を受け取っている。ブーゲンハーゲンの従者が「使徒は伝道の謝礼を受け取ったでしょうか」と尋ねると、ブーゲンハーゲンは「そうだ」と答えたという。
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