ノーラン・ライアンの加入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 23:54 UTC 版)
「ヒューストン・アストロズ」の記事における「ノーラン・ライアンの加入」の解説
1980年、カリフォルニア・エンゼルスからノーラン・ライアンを4年450万ドルという当時では破格の契約で獲得。ライアンはMLB初の100万ドルプレイヤーとなった。また、レッズからはジョー・モーガンがチームに復帰し、モーガンは経験豊富なベテランとしてチームを引っ張った。彼らの活躍もあってチームも勝利を重ね、最終的にロサンゼルス・ドジャースと同率首位に並んだ末、ワンゲームプレイオフに勝利し、球団創立19年目にして初の地区優勝を果たした。続くナショナルリーグチャンピオンシップシリーズ(NLCS)ではフィラデルフィア・フィリーズと対戦。第1戦以外はすべて延長戦による決着という激戦の末、2勝3敗で敗れ、リーグ優勝はならなかった。 1981年、ドジャースからドン・サットンを獲得。サットン、ライアンという当時のナ・リーグを代表する右腕投手が揃った。9月26日にはライアンが通算5度目のノーヒットノーランを達成し、サンディ・コーファックスの持つMLB記録を破った。また、自己最高となる防御率1.69を記録し、最優秀防御率も獲得した。同年にはストライキによって前後期制となり、アストロズは33勝20敗で後期優勝を飾る。プレーオフでは、前期優勝のドジャースとのナショナルリーグディビジョンシリーズ(NLDS)に臨み、第1戦、第2戦と連勝したが、その後は3連敗を喫し、地区優勝はならなかった。 1983年4月27日にはライアンがウォルター・ジョンソンの持つ通算3509奪三振を抜き、通算奪三振のMLB記録を更新。 1986年にはマイク・スコットがスプリットフィンガード・ファストボールをマスターし、「見えない球をどうやって打つんだ!」と言われるほどの魔球だった。18勝10敗、防御率2.22、306奪三振を記録し、サイ・ヤング賞を受賞。スコットはこの年の9月25日にはノーヒットノーランを達成し、打線ではグレン・デービスが31本塁打を放ち、アストロズではジミー・ウィン以来となる30本塁打以上を記録した(本拠地のアストロドームは極端に本塁打が出にくい球場として知られ、アストロズの選手が25本塁打以上を記録するのも稀であった)。この年は彼らの活躍もあって2度目の地区優勝を果たした。続くNLCSではメッツと対戦。共に2勝ずつをあげたが、第5戦、第6戦と共に延長の末に敗れ、リーグ優勝はならなかったが、マイク・スコットが2試合に登板し防御率0.50、2勝を記録し、この活躍が評価されMVPを受賞している。 その後、1988年限りで40歳を迎えていたライアンをテキサス・レンジャーズに放出。チームは低迷し、1990年代中盤まで優勝とは縁のないシーズンが続いた。また、観客減にも悩まされるようになり、移転話も持ち上がったが、こちらは結局実施されなかった。また、同年にはクレイグ・ビジオがメジャーデビュー。
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