ナーディル・シャーのデリー占領と略奪・破壊
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「ムハンマド・シャー (ムガル皇帝)」の記事における「ナーディル・シャーのデリー占領と略奪・破壊」の解説
その後、ナーディル・シャーはムガル帝国の富を求めて、1737年にアフガニスタンへと侵攻した。インドとの中継地アフガニスタンにおいては、サファヴィー朝の衰退で1720年代にアフガン系ギルザイ族が支配するなど、イランもアフガニスタンの支配権を失っていた。 同年にナーディル・シャーはカンダハールをギルザイ族から奪還しのち、翌1738年にはムガル帝国がアフガン人の統治を失敗したことを口実に帝国領へ侵攻した。彼はアフガニスタンの主要都市カーブルを占領し、アフガニスタン全域を支配下に置いた。 同年末、イラン軍は北西インドにまで侵入し、帝国はラホールが占領されたときになって、ようやく大急ぎで防衛準備を始めた。だが、派閥争いをしていた貴族らは派閥争いをやめず、防衛の指揮系統や防衛方法すら合意に至らずにあいまいなまま、ムハンマド・シャーを連れて戦場に赴いた。彼らは相互に猜疑心と嫉妬心に駆られていた。 1739年2月24日、デリーから110キロの地点カルナールで、ムガル帝国の大軍はイラン軍に打ち破られ、帝国軍は主だった指揮官をはじめ、数万人の犠牲を払う大痛手を被った(カルナールの戦い)。そのため、ムハンマド・シャーはナーディル・シャーと講和を結ぶことにし、自らその交渉にあたった。 こうして、同年3月20日、ナーディル・シャーは軍とともにデリーへ入城し、デリーを占領した。だが、これに不服だったデリーの住人はムハンマド・シャーの意に反して、21日にイラン軍に反撃に出始め、ナーディル・シャーは軍に市民を皆殺しにするよう命じた。 この虐殺による死者は30,000人にも及んだとされ、イラン軍による殺戮、略奪、放火はすさまじく、デリーは無法地帯と化した。帝室の財産があるデリー城にも略奪が及び、宝物庫からはコーヒ・ヌール、ダリヤーイェ・ヌールのダイヤモンドなど、多数の財宝を運び出され、シャー・ジャハーンの「孔雀の玉座」も持ち出されてしまった(のち孔雀の玉座はイランで解体された)。また、主だった貴族からは献納金を徴収し、虐殺から辛うじて生き延びた市中の人々にも身代金が課せられた。 ナーディル・シャーはこの略奪により、じつに総額7億ルピーに相当すると推定される戦利品を得たという。それは兵士に未払いの給料と6カ月分の給料に相当する特別手当の支払いを可能にし、イランにおいて3年間にわたる免税さえも可能にした。 その後、同年5月、ナーディル・シャーは皇帝ムハンマド・シャーにもはや戦意がないとわかると、彼はデリーから軍を撤退させることにし、その際にインダス川以西の帝国領を割譲させた。こうして、彼は途方もなく莫大な戦利品とともにイランへと帰還し、撤退後の首都デリーについてある文献はこう語る。 「 「長い間、通りには遺体が散乱していた。まるで、枯れた花や葉に覆われたように通庭園の小道のように。平原は辺り一面、火に焼きつくされた」 」
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