ナーディル・シャーの傀儡国家としてのサファヴィー朝再興
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同年11月10日、フサインの子タフマースブ2世が旧都ガズヴィーンで即位するも、諸勢力の攻勢の前に逃亡を続けるが、やがてホラーサーンにいたクズルバシュ(トルクメン人)のアフシャール部族(英語版)を率いるナーディル・クリー・ベグがタフマースブ2世を庇護し、その摂政となった。 マフムードの方はサファヴィー朝の王族を大量虐殺したせいで人心を失い1725年に暗殺され、従兄弟(甥とも)のアシュラフがギルザイ部族を率いたが、支配体制は不安定であった。ナーディルはこうした好機を見逃さず、ギルザイ部族を1729年のダムガンの戦い(英語版)で破り、捕らえたアシュラフを翌1730年に処刑してイスファハーンを取り戻し、オスマン帝国との戦争(オスマン戦役(英語版))も有利に進めた。1735年にギャンジャ条約を締結してロシアとも和睦している。こうして、ナーディルはサファヴィー朝領の大半の回復に成功、自ら絶大な権威を確立し、サファヴィー朝の末期にペルシアの国力は急速に上昇した。 しかし、ナーディルの権勢が増大する一方、タフマースブ2世の影は薄くなり、1732年にオスマン帝国と不平等条約を結んだことを口実にしたナーディルに廃位・追放され、子のアッバース3世が傀儡としてナーディルに擁立された。そして1736年、ナーディルはアッバース3世を退位させ、サファヴィー朝は名実ともに滅亡した。
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