ナコグドチェス設立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 05:45 UTC 版)
「スペイン領テキサス」の記事における「ナコグドチェス設立」の解説
ロス・アダエス近くに住んでいた500人のヒスパニック系開拓者が1773年にサンアントニオに再入植させられた。ルビによる調査から開拓者の移動までの6年間で、テキサス東部の人口は200人のヨーロッパ人から、スペイン人、フランス人、インディアンおよび数人の黒人を含み500人にまで増えていた。開拓者達はサンアントニオに移住するためにわずか5日間の準備期間しか与えられなかった。彼等の多くは3ヶ月の行程の間に死に、他の者も到着後間もなく死んだ。 彼等は抗議を行った後で、翌年テキサス東部に戻ることを許されたが、ナカタシュから175マイル (282 km) のトリニティ川までとされた。アントニオ・ジル・イバルボに率いられた開拓者達は、「サンアントニオからロス・アダエスに向かう道がトリニティ川と交わる所」にヌエストラ・セニョーラ・デ・ピラール・デ・ブカレリの町を建設した。開拓者達はルイジアナからサンアントニオに向かう密輸品を運ぶことを手伝い、また兵士達が海岸を偵察するのを手伝った。 1776年、カルロス3世はテキサスを含む地域を統率する新しい役職として、ヌエバ・エスパーニャ内陸部軍政府長官を創設した。最初に任命されたのはテオドロ・デ・クロワであり、1776年から1783年まで地域の知事および総司令官を務めた。クロワが職に就く準備をしているときに、前任者のリッペルダ男爵は1777年4月27日付けでテキサスの開拓地について詳細報告書を書いた。その報告書の3分の1はブカレリ集落の詳細に割かれ、そこを「無人であることと同じくらい広範に海岸に関する報告を得る手段として大きな重要性」があるものと見ていた。ブカレリの開拓者達は定期的に海岸の探検を行い、海岸沿いで外国人のいかなる兆候も報告するビダイ族との友好関係を作っていた。1777年夏、ジル・イバルボは一群のイギリス人が海から現れてネチェズ川近くに穀物を植えるだけ十分長く滞在した跡を見付けた。彼は遠征隊を率いてイギリス人を見付けようとしたが、畑は見付けたものの、開拓者は誰も見付けられなかった。 1779年、コマンチェ族がブカレリ地域への襲撃を始め、そこの開拓者達は古いナコグドチェス伝道所があった東に移動することを選び、同じ名前の町を設立した。この新しい町は直ぐに密輸品の中継基地になった。開拓者達は移動する許可を得ていなかったし、1795年までは新しい町を守る軍隊も割り当てられなかった。
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