ドキュメンタリーディレクターとして
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 01:09 UTC 版)
「是枝裕和」の記事における「ドキュメンタリーディレクターとして」の解説
将来的に監督業を目指すことも視野に入れながら1987年に番組制作会社テレビマンユニオンへ入社。(2013年の重松清によるインタビューで是枝はテレビマンユニオン創設メンバーの今野勉、萩本晴彦、村木良彦の名を挙げてテレビ特有の作家性に閉じないライブ感を3人から教わったと述べていて、テレビマンユニオンへの参加10年が経過した1997年に新人採用試験の委員長を務めた際には、「今野勉、萩本晴彦、村木良彦にインタビューしてください」という課題を出した。) 『遠くへ行きたい』、『アメリカ横断ウルトラクイズ』や『日立 世界・ふしぎ発見!』等のテレビ番組のADとして毎日怒られる生活を続けながら、企画を考え一人で作れるものを模索した結果、90年代、フジテレビの『NONFIX』でドキュメンタリー番組を多く手掛けるようになる。 ドキュメンタリー1作目となった『しかし… 福祉切り捨ての時代に』では、生活保護を打ち切られた難病の女性の自死と福祉に尽力しながらも水俣病和解訴訟の国責との板挟みで追い込まれた厚生官僚の山内豊徳の自死、別々に起きた2人の死の背景にある福祉の問題を追い、ギャラクシー賞優秀作品賞を受賞。すぐに次の番組作りの声がかかると、是枝が3年前から密かに一人でホームビデオ片手に密着を続けていた長野県の小学校のドキュメンタリー『もう一つの教育〜伊那小学校春組の記録〜』の放送が決まる。この作品は教科書を使わない総合学習に取り組む小学校の子供たちが仔牛の飼育をする3年間の成長記録でATP賞優秀賞を受賞。映画監督となった後も、これらドキュメンタリー制作の経験によって、映画でも一般の人たちの暮らしに寄り添うものを作りたいと考えるようになる。
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