チームの復活とスタジアムの終焉
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「カンプ・ダ・ラス・コルツ」の記事における「チームの復活とスタジアムの終焉」の解説
FCバルセロナは1942年にはセグンダ・ディビシオン降格の危機にさらされ、一方で同じシーズンには決勝でアスレティック・ビルバオを4-3で下しコパ・デル・レイを獲得した。徐々にチーム状態は回復し、1944-45、1947-48、1948-49シーズンとプリメーラ・ディビシオンを制覇した。加えて、1949年には国際大会「コパ・ラティーナ」でスポルティングCPを下し優勝。会場はラス・コルツで、3位決定戦にも使われた。1940年代後半は他を寄せ付けない強力なメンバーが揃った。セサル、バソラ、バラスコ、クルタ、グンサルボ兄弟、ザゲー、ビオズカ、ラマレッツらがチームの屋台骨となり、クラブ創立50周年の年にリーグ優勝を飾ることができた。そしてエンブレムの中のサニェーラ旗が元通りのデザインに直されるという吉事もあった。 アグスティー・ムンタル・イ・ガルバルト会長の署名とサミティエルの助言によって1950年にラディスラオ・クバラが入団すると、このハンガリー人はバルサの新しい原動力となった。1951年から1953年にかけて、1951-52と1952-53シーズンのリーグ連覇、そして1951・52・53のコパ・デル・レイ優勝と国内タイトルを総なめにする。他にも、バルサは1952年にOGCニースを決勝で破りコパ・ラティーナを再び制覇。当時のスーペルコパに相当する「コパ・エバ・ドゥアルテ・デ・ペロン」、「マルティーニ&ロッシ杯」にも優勝した。「5冠のバルサ」の主力メンバーとしては、バソラ、セサル、クバラ、ムラノ、マンチョンなどが有名である。 ただこれだけ成功をすれば、観客数の増加にラス・コルツの収容能力も追いつかなくなってきた。60,000人収容でも手狭なほどの動員力を当時のバルサは誇っていた。1950年11月14日、ムンタル会長は経営執行委員会の会議で、ラス・コルツ地区に近い周縁部に新しい土地を買うことに決めた。そこには墓地と産婦人科病院があった場所で、のちにカンプ・ノウが建設されることになる。宿敵レアル・マドリードが1947年12月に巨大なスタジアムを既に建設したことも背景にあるとされる。 土地の正式買収は3年半ほどもかかり、ようやく1954年3月28日に新スタジアムの建設が起工された。フランサスク・ミロー・ザンス会長はアンリク・マルティー・カーラットから会長職を継承。新スタジアム建設を改めて正式に決定した。ミロー・ザンスはラス・コルツとラ・マシアの見学を行い、60,000人が見守る中でカンプ・ノウの礎石を置いた。厳粛なムードで辺りは静まり返っていた。3年後の1957年9月24日、ラ・マルセーの祭りの日にミロー・ザンスはカンプ・ノウの竣工を告げた。収容人数は90,000人と発表された。ラス・コルツはその後、かなり急に閉場・解体されてしまった。跡地には住宅街と児童公園が建設された。
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