ターボの先駆者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 19:17 UTC 版)
1970年代、スポーツカーレースにおいてターボチャージャーエンジンを導入して成功を収め、1977年よりエキープ・ルノー・エルフとしてF1に参戦。3リッター自然吸気のフォード・コスワース・DFVエンジンが大勢を占める当時のF1界に、グランプリ史上初の1.5リッターV6ターボエンジンを搭載した車体で「フルコンストラクター」(車体もエンジンも自社で製作するチーム)として参入した。タイヤはミシュラン(F1初のラジアルタイヤを投入)、燃料はエルフ、ドライバーは開発兼務のジャン=ピエール・ジャブイーユというオールフレンチ体制だった。 過給器付きエンジンはF1選手権初期にスーパーチャージャー式が使用されたが、その後自然吸気エンジンが主流となり、挑戦する者は現われなかった。ターボチャージャーについては、スロットルに対しての反応が遅い「ターボラグ」が指摘されていたことと、換算比がF1以外では「1.4」(3リッターでは2.14リッターまで)に対しF1では「2」(3リッターでは1.5リッターまで)と、より厳しく規定されていたことから、グランプリには自然吸気エンジンの方が適していると言うのが当時の常識であった。当然ルノーの挑戦に対してもグランプリでは懐疑的な意見が多かった。 実際、参入当初は熟成不足のためもありエンジントラブルで白煙を上げながらリタイアすることが多かったため、その黄色いカラーリングをもじって「イエロー・ティーポット」と揶揄されもしたが、次第に信頼性を上げ実力を発揮し、デビュー3年目、2カー・エントリーとなった1979年にジャブイーユが地元フランスGPで初勝利を達成した。また、チームメイトのルネ・アルヌーも3位でフィニッシュした。その後のF1界は、ターボエンジンを搭載した車体で勝利を重ねるルノーに倣って、自然吸気エンジンからターボエンジンへの移行が大きな流れとなった。 1981年に加入した新鋭アラン・プロストがエースとなり、アルヌーとのコンビで選手権争いに絡んだ。1982年のフランスGPでは、アルヌーがチームオーダーを無視して優勝し、シーズン後にチームを去った。1983年にはプロストがドライバーズチャンピオン争いをリードしたが、終盤戦に失速し、最終戦南アフリカGPでブラバムのネルソン・ピケにタイトルを奪われた。プロストもこの件で責任を負わされ、チームを離脱した。
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