ソウルでの屈辱
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山下の引退後は柔道界のトップに立つと期待された。85年9月にソウルで開催された世界選手権に出場すると、決勝戦で地元・韓国の趙容徹と対戦。この試合では趙が開始すぐ立った姿勢から腕挫腋固を仕掛けて@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}一挙に体を捨てる[要出典]と、「バキッ」という音と共に斉藤は釣り手である左腕の肘を脱臼して試合続行不可能となり、棄権負となった。これに対して日本選手団は、趙が施した立ち姿勢から体を捨てる[要出典]腕挫腋固はIJF試合審判規定28条で示されているように警告に該当する反則技なのではないかとIJFに質問状を提出したが結果として徒労に終わり、斉藤にとって2度目の世界選手権は最悪の結果となった。これについて斉藤は後に「(山下が引退し)これから自分の時代だ、という気負いが逆に心の隙を生んだ」「相手の技を返す事を考えて受けの柔道になっていた事が最大の敗因」と述懐している。 ソウルでの大怪我の後は腕も細くなり左手に力が入らない状態であった。それでも斉藤は柔道界を背負わなければという使命感から腕にチューブを巻いて練習に打ち込んだが、全国の猛者が集う全日本選手権では手負いの状態で勝てるはずもなく、翌86年大会は準決勝戦で藤原敬生5段に1-2の判定で惜敗し3位にとどまった。それでも同年10月のアジア大会と嘉納杯では優勝を果たしている。1987年には全日本初制覇を意気込んで練習に励むも、大会直前の3月に右膝を捻り半月板損傷・十字靭帯および外側靭帯の断裂という大怪我をして本大会出場は叶わず。手術を受けて療養のため群馬県の上牧温泉病院に入院したが、自暴自棄になってリハビリにも力が入らず「周囲から見たら不快な患者だったのではないか」と斉藤。そんな中、手が不自由な老人が懸命に手を動かす姿を見て斉藤は「本来ならば世界チャンピオンの自分が周囲の患者を励ます立場じゃないか」と猛省し、その後はもう一度畳の上に立つ事を誓ってリハビリに励んだという。
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