ソウルで金メダル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 09:27 UTC 版)
度重なる大怪我で限界説も囁かれた斉藤だったが、懸命のリハビリの末に再び道衣を身に着けると直後3月の全日本選手権東京予選に優勝し、ソウル五輪への出場権を懸け不退転の決意で1988年の全日本選手権に出場した。大会3連覇を狙う正木嘉美5段や前年準優勝の元谷金次郎5段、学生ながら前年の世界選手権無差別級王者となった小川直也4段に、既にベテランの域となっていた斉藤を加えた4人の激突に注目が集まり、大会本戦ではまずこのうちの元谷と小川が3回戦で姿を消した。必然的に決勝戦は正木と斉藤との争いとなり、会場の日本武道館が大いに湧き立つ中での決勝試合は両者の激しい攻防となったが、復活戦での優勝を狙う斉藤が終始気迫の攻めを展開し、試合時間一杯後の旗判定では文句無しに斉藤の優勢勝が宣せられて悲願の全日本初制覇を成し遂げた。続く6月の全日本選抜体重別選手権でも決勝戦で小川を効果で破り、これらの活躍を以って斉藤はソウル五輪の重量級代表に選出された。 ソウル五輪本番では斉藤の出場する重量級までの階級で他の日本代表選手は全員が金メダルを逃しており、東京五輪より続く日本柔道の金メダル連続獲得記録が斉藤に託されるという状況であった。その大変な重圧の中で準々決勝戦までの3試合を得意の寝技で一本勝すると、準決勝戦では因縁の相手である韓国の趙容徹を注意で破った。そして迎えた決勝戦では東ドイツのヘンリー・ストールを警告で降して五輪重量級2連覇を達成し、大会の柔道競技で日本人唯一の金メダリストとなってお家芸・日本の威信を一人で守り抜く形となった。なお、中学時代に斉藤ら柔道部員の熱意を買って柔道部の代理顧問を務め休部の危機を阻止してくれた吉田教諭が、斉藤のためにソウルまで応援に駆け付けてくれていたという。
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